「卒業すると自立から遠のく…」“18歳の壁”とは

「卒業すると自立から遠のく…」“18歳の壁”とは
3歳のころ、幼稚園に入園した時の様子です。

ことば遊びや替え歌が大好きな男の子でした。

その後、病気のために生活が一変。医療的ケアを受けながら小中高と計12年間学校に通い、3月14日に卒業式を迎えて学びやをあとにします。

しかし今、“18歳の壁”に直面しています。(山形放送局記者 及川緑)

よく食べて、よく寝る

2004年6月、病院で生まれたばかりの藤川陸さんです。

2780グラムの元気な赤ちゃんでした。
ミルクをよく飲んで、よく食べ、よく寝る。

そして、とてもよく笑う男の子でした。

ことばを話せるようになると、おしゃべりも大好きになりました。
おはようのあいさつをミッキーマウスマーチのリズムに乗せて、「おっはよう、おっはよう、おっはおはよう」と歌いながら起きてきた朝もあれば。

だじゃれの多い絵本を読んで、「こんにちワニ」と言って笑っていたこともありました。

初めて聞く名前の病気

そんな陸さんに病気の症状が出始めたのは、1歳前後のことでした。

熱がないのにけいれんの発作が出たり、突然発疹が出てミルクが飲めなくなったり。1歳半の時にインフルエンザに感染、けいれんが止まらなくなって、ものを飲み込めない状態に。

病院で詳しく検査して受けた診断は、「ミトコンドリア病」。初めて聞く名前の病気でした。

細胞の中にあるミトコンドリアの働きが低下することが原因で、脳や筋肉、心臓などの機能が低下し、見たり聞いたり物事を理解したりすることや、体を動かすのが難しくなるなどの症状が出る国指定の難病です。根本的な治療法は確立されていません。
それでもその後、治療を続ける中でやっと歩けるようになって迎えた3歳の時、幼稚園に入園します。

僕、赤ちゃんじゃない

幼稚園では友だちとたくさん遊びました。

一緒にいると楽しくなって、当時使っていた歩行器を持ってバーッと走り出したり。

運動会のかけっこでは、先生と手をつないで、頑張って最後まで走りました。
病気の影響で疲れやすいため長い時間歩くのが難しく、お出かけの時にはベビーバギーに乗ることもありました。

一見、元気に見えるだけに、ある時、通りがかった人から「こんな大きな赤ちゃんいないわよ」と心ないことばをかけられました。

それを聞いて「僕、赤ちゃんじゃない!」と意地になって歩き出して、あとで寝込んでしまったこともありました。

入院、そして医療的ケアが必要に

容体が大きく変わったのは、幼稚園の年少組の終わりのころ、体調を崩して入院した時のことでした。
「処置しますから待っててください」

医師にそう言われ、丸一日待った母親が次に会った時、陸さんにはたくさんの点滴が。人工呼吸器も付き、寝たきりの状態となりました。

その後リハビリを頑張り、いったんは呼吸器無しで生活できるまでに回復、小学生になって特別支援学校にも通い始めます。

しかし1年生の夏休み、再び状態が悪化して半年間入院、その後は呼吸器も24時間必要となり医療的ケアが欠かせない生活が続いています。

「どれ見る?」意思疎通の練習も

陸さんは今、18歳。小学生から通ってきた特別支援学校の高等部3年生です。

自宅では母の藤川友子さん(59)が身の回りの世話をして、平日の日中は学校に通う毎日を過ごしてきました。
母 友子さん
「昔は必死で『ちょっとでも元に戻らないか』と思っていました。でも今は、できなくなったことは多いけれど、そこは受け入れられています。『ことしも1年、生き抜きました』みたいな感じではなく、ふつうに『18歳になりました。よかったね』という感覚でいます」
呼吸は人工呼吸器をつけて、食事は胃ろうを通じてとっています。

視力や聴力は、検査では「見えていない」「聞こえていない」と判定されていて、自分からは明確な意思表示ができません。

それでも友子さんが「おはよう」と声をかけるとときどき声を出したり、食べ物の話をすると口がもぐもぐと動いたりすることがあります。

家ですごす時の定位置はテレビの前で、友子さんはいつもテレビ欄を出して「どれ見る?」と声をかけます。

陸さんは目をぱちぱちさせる時と、きょろきょろする時があります。友子さんは「ぱちぱちした時はYESだよね」という約束ごとを決めて「今ぱちぱちしたからこの番組だよね」と声をかけてそのチャンネルに合わせます。
母 友子さん
「本人の意思が本当にそうかは読み切れないけれど、意思疎通の練習も兼ねて続けています」
陸さんの介護で、特に体力的に負担が大きいのは入浴です。湯船につかる際は、体重38キロの陸さんをいすから1人で持ち上げなくてはなりません。

陸さんの入浴介護は、1回につき小1時間かかります。今は平日は学校のあとで放課後デイサービスに通うほか、ヘルパーや看護師のサポートを受け、週5回は入浴介護も済ませてもらうことができています。

「医ケアの子は受け入れていません」

ただ、問題は卒業後の生活です。陸さんの学校では、高等部に進級すると、卒業後の進路を決めるための実習や見学が行われます。

友子さんも、食事や入浴などの介護サービスを受けながら簡単な作業を行う「生活介護事業所」に陸さんが通えるように探しましたが、そこには大きな壁が立ちはだかっていました。

医療的ケアが必要な人を受け入れる事業所が、そもそも少なかったのです。
母 友子さん
「もう、大変でした。『医ケアの子は受けていません』とか『人工呼吸器までは無理です』とか。この事業所だと医ケアを受け入れていると聞いたけど、遠くて通えないとか、まず候補を探すのに苦労しました」
地元では陸さんを受け入れる事業所は見つからず、結果、隣の市と町にある事業所に通うことになりましたが、ケアの内容の引き継ぎなどのために、当面は事業所ですごす陸さんの付き添いも必要になります。

そして、体力的な負担の大きい入浴は、今は放課後デイサービスだけで週3回の入浴介護を確保できていますが、卒業すると通えなくなります。そのため、この春からは入浴介護を受けられるのは週2回になる見通しです。

訪問看護の回数を増やせないか、現在検討しているといいます。
さまざまなサービスを頼りながら、陸さんが少しでも母親の自分から離れて生活できるようにすること、「自立」に近づけるようにすることを願って、友子さんは毎日をすごして来ました。

しかし学校の卒業と同時に、それが逆戻りしてしまうかのような状況に、「卒業」が持つ「成長」や「自立」といったイメージとのギャップを感じていると言います。
母 友子さん
「本来だったら、高校生男子の一日って、お母さんが知らない“謎の生き物”みたいになってると思いますし、そういう時間が増えていくことが成長だと思っていました。でも、高校を卒業するとそれがいったんなくなってしまい、卒業すると逆に『自立』から遠のくことになります。今学校では、ほとんど付き添いすることもなくなっているし、放課後デイサービスにも行けるようになっています。それがまた付き添いが必要な状態に戻り、お風呂も入らず帰ってくるので、ますます自立から遠ざかるかなと思います」

ほかの“ママ友”たちも…

友子さんが直面するギャップは、陸さんよりも若い医療的ケア児の母親たちも、同じように不安に感じています。

友子さんは、母親たちのコミュニティーを作ろうと、9年前(2014年)に任意団体を設立。4年前(2019年)にはNPOとなりました。

その運営メンバーの“ママ友”たちからは、切実な声が聞かれました。
飯島真紀さん
「ふつうに考えたら17歳って希望しかないはずなんですけど、突然社会に放り出される感じ。自分が高齢になって急に倒れたときに、突然この子たちを預かってくれる場所があるかというと、とても難しい」
前島志保さん
「卒業後を考えると、どうなるんだろうと不安ばっかり。この子は入院がすごく多くて、さっきまで元気だと思ったらすぐに具合が悪くなる。誰が気づいてくれるんだろう、親である自分以上にやってくれる人がいるのかなと」
「私が先に死ぬのは絶対に許されないこと。もしあの子が亡くなることを考えるとつらいけど、自分が(先に)死ぬことのほうが怖い。安心して任せられる人が現れない限り、不安は消えない。みんなそれは思っていると思います」

それなら自分たちで

メンバーみんなが抱える、将来への不安。

「それなら、自分たちでやるしかない」

友子さんはママ友たちと話し合って、行動することを決めました。自宅がある埼玉県ふじみ野市の隣、三芳町にことし1月、医療的ケアが必要な人が通う「日中一時支援事業」を立ち上げたのです。
場所は、費用を抑えるために地域の一軒家を借りました。

陸さんが幼稚園のころから担当してきた看護師など、5人の看護師が在籍。月曜日から土曜日の日中、年齢を問わず医療的ケアが必要な人を預かるほか、訪問看護にも対応できます。

サービス開始の初日、利用者として訪れたのは、陸さんをはじめ運営メンバーの子どもたち3人でした。

早速、看護師がたんの吸引をしたり、母親たちからケアをするうえでの注意点を引き継ぎました。
そして、みんなでパンケーキを作りました。陸さんも看護師や友だちのサポートを受け、生地をかき混ぜました。

友子さんによると、退屈なときや寒い時は車いすの上で寝ていることも多い陸さん。

この日も、到着してからほとんど寝ていた様子でしたが…。
パンケーキ作りを始めてから間もなく、目がぱっちりと開きました。

その様子に、母親たちや看護師、友だちからも歓声が上がりました。
渡邉恵さん
「多分楽しいんだろうなって思います。雰囲気違うのわかるんじゃないかな、あんなにぱっちり目開いているの最近見たことなかったので」
初日を「子どもたちが楽しそうでよかった」とふりかえった友子さん。

それでも、まだまだ始まりに過ぎません。
母 友子さん
「これが最初の一歩だと思っています。子どもたちが毎日張り合いを持って過ごせるような場所、例えば高校を卒業後の受け皿になれるような場所だったり、その先の生活の場となるグループホームも作りたいと思っています」

“それまでは、死ねない”

聞き慣れないかもしれませんが、「医療的ケア者」ということばがあります。

生きていくためにたんの吸引や人工呼吸器など医療的なケアが欠かせない「医療的ケア児」が大きくなって18歳以上になった人のことで、今回ご紹介した藤川陸さんもその1人です。

NHKは去年(2022年)秋、当事者家族などでつくる全国組織「全国医療的ケアライン」の協力でアンケートを行い、医療的ケア児と医療的ケア者の家族、合わせて318人から回答を得ました。

その中で、「医療的ケア者」への支援についてどう感じるか、子どもの年齢を問わず聞いたところ、以下のような結果になりました。
「足りている」0%
「どちらかと言えば足りている」0.6%
「どちらかと言えば不足している」14.5%
「不足している」57.5%
「どちらとも言えない」4.1%
「わからない」15.4%
「無回答」7.9%
「不足している」と「どちらかと言えば不足している」と回答した人が合わせて72%に上りました。

また、子どもが18歳になってから直面した課題、また18歳になったときに懸念される課題についての質問では。

▽「子どもの体が大きくなり、ケアする家族の負担が大きい/大きくなる」が最も多い80.5%、
▽「生活介護事業所」をはじめとする「通所施設」の不足も75.2%、
▽グループホームの不足も52.5%となりました。

陸さんの母、友子さんは「お子さんが18歳以上になってからどのような課題に直面しているか」という質問に、「親亡きあとの生活」と答えていました。
友子さんのアンケートから抜粋
「意思疎通ができない=意思がないではないし、寝たきりにさせておいて良いわけでもないし、何にも感じないわけでもない。ひとりの人間としての権利もあれば、感情もあり、楽しいことも学ぶこともしたい。めんどくさい人たちなのかもしれないけれども、もう少し耳を傾けてほしい」
「日中一時支援事業」を仲間のみんなと一緒に立ち上げた友子さんは、さらにその先も見据えています。
母 友子さん
「本当は私達が全部第三者にお任せして、私たちが作り上げたものをお渡しできればいいなというのがあります。いつまでもお母さん自身がやっていたのでは、その事業は成り立たない。思いをくんでくれる人たちがどこかに絶対いると思うので、そういう人に広がってくれるのが一番いいかなと思います」「でも、そうならなかったら、『そんなに大変なら私たちやりますよ』と言ってくれる人が出てくるか、どっちかじゃないと。そうなるまでは、死ぬに死ねないです。居場所を確保するまでは」
山形放送局記者
及川緑
2018年入局
県警担当、米沢支局を経て現在遊軍担当
医療的ケア児の取材を続けて3年目になります