考えたことがありますか? 命を守る人の“命”を

考えたことがありますか? 命を守る人の“命”を
「命を守る人の“命”は、どう考えればよいのか…」

東日本大震災からの大きな問いかけです。

病院や介護施設には、災害が起きても、自力では逃げられない患者や要介護者がいます。

そのとき、医師や看護師たちは「目の前の命」と「自らの命」の間で大きな決断を迫られます。

今回取材をしたのは、石巻市立雄勝病院。

自力で動けない高齢者等の入院患者を置いて逃げられないと、病院に残った医師・看護師たち24人および入院患者全40人、計64人が津波の犠牲になりました。

あの日、職員たちはなぜ病院に残ったのか。

雄勝病院が遺した、命をめぐる問いかけです。

(雄勝病院取材班)

海辺にあった、町の病院

仙台から車で2時間、太平洋に面し、リアス式海岸が特徴の石巻市雄勝町。

かつて雄勝病院があった場所は、現在更地となり、ひとつの慰霊碑が立っていた。

慰霊碑には、この場所で命を落とした方々の名前が刻まれていた。

2011年3月11日 あの日、雄勝病院で何があったのか

当時、雄勝病院には自力ではほとんど動けない寝たきりの患者が40人入院していた。

海の見える病室はいつも満床で、看護師たちがなじみの浜言葉で患者のケアをする声や、見舞いに来た住民たちとの会話が響く、にぎやかな病院だった。

2011年3月11日 14時46分。

その日常が一変した。

マグニチュード9.0の地震が発生し、その46分後に、3階建ての病院の屋上をはるかにしのぐ16メートルの津波が襲った。

複数の住民がその様子を目撃していた。
・地震発生後、医師や看護師たちが一度は病院の外に出てきた

・近隣住民は病院のすぐ裏山に逃げていた 病院から歩いて1~2分で避難できた

・医師や看護師たちが病棟に戻ることを制止した住民たちがいた
住民の証言
「『津波来っから裏山さ逃げろ!』という発言はしました。でも、職員は『患者を置いて逃げられない』と、病棟に戻っていった」
・裏山に逃げた住民は、病院が津波にのまれる様子を目撃していた
住民の証言
「屋上で先生とか看護師さんたちが右往左往しているのを見た。どんな状況で慌ててたんだろう。みんなの顔が浮かぶ…。本当にお世話になったんだもの」
医師・看護師を含む職員24人、入院患者全40人、計64人が犠牲に。

4人の職員が津波にのまれながらも助かった。

そのうちひとりが、当時の病院内の状況を書いた手記を見せてくれた。
(手記一部抜粋)
大津波警報が発令され、私ともう一人の職員は一目散に3階病棟まで駆け上がりました。
意識のある患者さま1名を4人がかりでシーツに包み、屋上へ退避しました。
屋上へ着く頃には、すでに3階に水が入り、他の患者様はどうすることもできない状況でした。
患者様を抱え、屋上で呆然としていましたが、すぐに屋上にも水が達し、医師・看護師等職員も含め全員が津波に呑み込まれました。

「津波てんでんこ」が通用しない現場

東北の三陸地方には、「津波てんでんこ」という言い習わしがある。

「地震が起きたら津波が来るので、肉親にもかまわずてんでばらばらに逃げろ」という意味で、度重なる津波の被害を受けた三陸地方の人々が、津波を生き抜くための教訓として言い伝えてきたもの。

しかし雄勝病院は、すべての場所で「津波てんでんこ」が通用するわけではないということを示した。

戻らなかった自分、非番でも駆けつけた親友

病院外では、すんでの決断で命が助かった職員もいる。

准看護師2人と運転手の訪問看護チームだ。

雄勝町は高齢化が進んでおり、自宅で療養する人も少なくない。

雄勝病院では、訪問診療や訪問看護を行っていた。

あの日も、3人の職員は訪問看護のため半島部をまわっていたときに地震に遭った。

そのひとり、元准看護師の近藤章子さん。

地震の直後、残り1軒の訪問看護をあきらめ、急いで病院に向かった。

しかし、病院まであと2~3分のところで、崖崩れによる渋滞に遭遇。

大津波警報のアナウンスも聞こえていたことから、やむなく病院と反対方向の高台に引き返した。

章子さんは、その決断をめぐり、深い葛藤を抱えてきた。
近藤章子さん
「あれでよかったのか?歩けば行けたかもしれない。時間がたつにつれて、戻れなかった自分を責めるというか。みんなと一緒に何もできなかったですからね」
章子さんが乗る訪問看護の車を運転していたのは、元ボイラー技士の千葉俊悦さん。

千葉さんは、「病院に戻る判断は自分が下した」と、看護師たちをかばうかのように、当時の決断を振り返る。
千葉俊悦さん
「1回病院に戻ろうと。でも戻る途中が崖崩れで交互通行になってたんです。これは戻れねえなって。ラジオでそのときもう10メートルくらいの津波が5分ほどでやってきますって言ってたので、ここにいたら絶対流されるよな、と。Uターンして山の上のほうに戻った。

本当は戻りたかったですよ。何が正解とか分からないですけどね、結果的には2人の看護師も無事だったし、よかったのかなと思いますね」
章子さんの深い葛藤の背景には、非番でも病院に駆けつけ犠牲になった幼なじみの存在もあった。

遠藤としえさん。

章子さんと小学1年生から中学校、看護学校までずっと一緒で、雄勝病院も同期の准看護師。

震災当日は、夜勤明けで非番だったにも関わらず、病院に駆けつけ犠牲になった。

責任感が強く、同級生だけどお姉さんっぽい性格のとしえさん。

看護学校時代は、夜になると寮の屋上でジュースを飲みながら将来のことを語り合い、震災の直前にも「退職したら一緒に温泉旅行に行こう」と話していた仲だった。
章子さんが胸の中に秘めていたあるエピソードを教えてくれた。
近藤章子さん
「震災後、毎年私たちは、3月11日に(慰霊碑に)行って遺族の人に線香を渡したり、立って待ってるんです。お父さんお母さん亡くした子もいますからね、なんかつい『ごめんね』と言ってしまうんですよね。

としえさんのところもそうなんですよ。震災前に結婚決まった娘さんがいて。(としえさんは)楽しみにしてたんだもん。『結婚決まったんだ』って。前の年かな。『次 孫だね』なんて言ってて『うん』とかって。

小さいころから一緒だったのになって、私だけ残ってしまって…やっぱりそういうのって仕方ないんですけど、どこかで申し訳ないなっていうのあるんですね。ついごめんねって謝っちゃったかな、あのとき」

遺族として12年間考え続けた結果「わたしは駆けつけない」

残された職員の遺族も、家族の最後の行動を考え続けている。

非番で駆けつけた遠藤としえさんの娘・坂本礼菜さんは、震災当時、仙台の病院で管理栄養士として働いていた。

ラジオで沿岸部の津波情報を聞いたとき、とっさに母は病院に行ったと確信したという。

その背景には、日頃から自宅で楽しそうに仕事の話をする母の姿があった。
坂本礼菜さん
「楽しそうでしたね。本当にこの仕事好きなんだな、この人はって感じで。『きょう患者さんがこういうことを言ってくれた』とか『なになにちゃんって患者さんがいてね、歌を歌ったりするんだよ』とか『機嫌いいと歌を歌うんだよ』とか。やっぱりやりがいとか自分が感動したこととかっていうのをよく家でも話してくれたかな」
長期入院の患者が多く、最期を迎える人も多かった雄勝病院。

としえさんたち看護師チームは、患者が少しでも心地よく過ごせるように、アイデアを持ち寄り、手を尽くした。

関節が固まり握ったままになった手に、乾燥したミカンの皮やお茶の葉を握らせて蒸れやにおいを防ぎ、病室にさわやかな香りを漂わせた。

反応がなくても、スキンシップをしながら楽しい話をした。

命ある人間として、最後まで尊重するその姿勢は、住民たちにとって心から安心できるものだった。
坂本礼菜さん
「愛情とかもあったんじゃないかなと思います、患者さんに対して。母にとっては患者さんも家族なんだろうなって思うので。多分絶対に置いて逃げるということはできなかったんだろうなって思いますね。それこそ多分職場の人とか患者さんを大事に思うからこそ、非番でも駆けつけたんだろうなと思うので」
そんな母としえさんの影響を受け、医療従事者の道を選んだ礼菜さん。

母の行動に対し、震災当時は「自分も同じ行動を取ったかもしれない」と考えていたという。

患者を心から大切にする母の姿は、礼菜さんの憧れでもあったからだ。

しかし、12年の歳月をへて、気持ちに変化があった。

きっかけになったのは、震災後に授かった2人の子どもの存在だった。
坂本礼菜さん
「自分が母と同じ状況になったらどうするんだろう、と考えることが結構ある。…自分は子どもと逃げるだろうなって。(震災)当時は母と同じ行動を取ったかも、と考えていたけれど、前とは違う目線で考えるようになった。

子どもが生まれてからは、2人が結婚するまでは自分できちっと育てようと思っている。私は病院には駆けつけないと思います」

医療従事者の命をどう考えればいいのか?

雄勝から少し離れた仙台の地で、割り切れない思いを吐露してくれた人がいた。

石井美恵子さん。

臨床検査科技師長として雄勝病院に単身赴任していた夫の達也さんが、犠牲になった。
石井美恵子さん
「医療従事者だから患者さんを助けないといけないというのは確かにあるけど、でも自分の命を落としてまで助けないといけないのかといったときに、逃げてかまわないんだよというルールは作れないのか。

裏山に逃げて助かった人たちがいたというその話を聞いたときに、逃げて助かるんだったら逃げてもよかったんじゃないのって。だって他人じゃなくて夫だし。家族だし」
しかし、息子たちからは釘を刺されたという。
石井美恵子さん
「『そんなこと口外するんじゃねえ』と言われた。『生き残ったあんたの夫はどうするんだ?患者を見捨てて自分だけ生き残ったという心の傷をずっと抱えて生きていくことになるんだぞ』と。本当にそうなのかな…」
石井美恵子さんの息子・裕さんは、母の気持ちを理解する一方で、答えのない問いに、揺れる思いを抱いてきた。
石井裕さん
「逃げればよかった、はそうなんだけど、現場にいたらそんなことできないんじゃないか。逃げなくていいという話ではない。患者さんたちにも家族はいるわけで、逃げられる人は逃げて、というのは亡くなった方からしたときに、受け入れがたい気がする。

一方では遺体安置所においてある遺体を見たときに、入院されていた患者さんたちの遺体もあるわけだけど、率直に言うと本当に寝たきりの方たち。そうすると比較してはいけない話なんだけど比較したくなるというのはすごく分かる。

だからといって、先が短い人とこれからがある人に差をつけてはいけないんじゃないか…。でも、生きていてほしかったですよ」
医療従事者にもあるはずの未来を生きる権利。

家族が思い描く未来の中に、たしかに達也さんはいた。

医療従事者でもあり、大切な誰かの肉親でもあったそれぞれの命。

彼らが遺したものは何だったのか。

棚上げにすることなく、思いをはせ続けたい。
石井美恵子さん
「(雄勝病院で働くことを)楽しんでたと思いますよ、患者さんと向き合うことというかね。義務感ではなく愛すべき人たちがいっぱいいるんだというのを思い始めたみたいですね。一生懸命石巻弁を話そうと努力するというね、でも全然抑揚が違ってたりとか。かなりの変化ですね。だって、自称シティーボーイだから。

そのためにかっこつけてたはずなんですけど、患者さんたちと当たるうちに、だんだん多分田舎のほうの方たちが好きになり始めた。周りの人たちとの関係の中で、おかれた立場の中で、だんだん人は変わっていくんだと思います。

だからもっとね、長生きしてればどんな人生だったのかと思うと、やっぱり残念かな。いい人になってピークではないでしょうから、それ以上のことがきっとあるでしょう。どんな花を咲かせたくって夫はいたのか?って」
高橋憲吾
2015年入局
ドラマ番組部→仙台放送局→第2制作センター社会

東北にて 目撃!にっぽん「待ちわびた帰り ~震災9年 身元不明者を捜して~」
プロフェッショナル仕事の流儀「田中将大スペシャル2021」など制作
松本真理子
(株)かなでる代表
仙台局にて「あの日の星空」「カフェの扉の向こう側」など制作
谷本奈々
2018年入局
首都圏放送センター→仙台局
仙台局 3.11プロジェクト「あの日、何をしていましたか?」
ストーリーズ「音楽と、11年の日々と、」など制作