「努力は無駄だったの?」聴覚障害の娘 将来収入は平均の85%

5年前、大阪・生野区で聴覚に障害のある女の子が交通事故で亡くなり、遺族が損害賠償を求めた裁判。争点は、女の子が将来得られるはずだった収入です。

大阪地方裁判所は、労働者全体の平均賃金の85%をもとに算出するという判断を示しました。遺族は、差別を認める判決だと訴えます。

(大阪放送局 記者 竹内宗昭)

“将来の収入”は健常者の4割?

5年前の平成30年、大阪・生野区でショベルカーが歩道に突っ込み、近くの聴覚支援学校に通う井出安優香さん(当時11)が亡くなりました。

両親は、ショベルカーの運転手と勤務先の会社に対して、損害賠償を求める裁判を起こしました。

この裁判では、安優香さんが将来得られるはずだった収入にあたる「逸失利益」について争われました。
遺族側は障害を前提にせず、労働者全体の平均賃金で算出するよう求めました。

一方、運転手側は当初「聴覚障害者は就職自体難しい」として、将来得られる収入は女性労働者の平均賃金の4割だと主張しました。
母親・さつ美さん
「成長を一番近くで見てきた母親としてどうしても許せないです。安優香の11年間を否定されたように感じました」

勉強熱心で社交的だった

安優香さんは学校の宿題などに加え、毎日欠かさず自主的に勉強していたといいます。
亡くなる前日も算数のプリントをこなしていました。
母親・さつ美さん
「勉強や宿題を頑張っていた証しのようなものです。真面目で頑張り屋さんだったなと改めて思います」

また、障害があることを気にせず、知らない人にも積極的に声をかけて交流するなど明るく社交的な性格だったといいます。
父親・努さん
「犬を連れている人に話しかけて犬の散歩をさせてもらったり、補聴器をつけている人には初めて会う人でも『友達だ』と言って話しかけたりしていました。亡くなっていなければ娘の将来の可能性はたくさんありました」

支援の輪広がる

裁判を通じて、両親への支援が広がっていきました。
聴覚障害のある弁護士らが力になりたいと、弁護に加わってくれたのです。
聴覚障害者の支援団体とともに集めた差別のない判決を求める署名は、11万人分余りに上りました。

その後、被告側は「逸失利益」について、これまでの主張を撤回し、労働者全体の平均賃金の6割にあたる、聴覚障害者の平均賃金で算出するよう求めました。

判決は“平均賃金の85%”

そして迎えた判決。
大阪地方裁判所の武田瑞佳裁判長は安優香さんについて「学習意欲があり、さまざまな就労可能性があったが、労働能力が制限される程度の障害があったことも否定できない」と指摘。

遺族側が求めた、健常者と同じ基準ではなく、聴覚障害者の平均賃金を踏まえて算出する考え方を示しました。
そして▽聴覚障害のある若い世代の大学進学率が増加傾向にあることや▽音声認識アプリの普及などでコミュニケーション上の影響は小さくなっていくとみられることなどを考慮して、安優香さんが将来働いていたであろう頃には、亡くなった平成30年当時よりも聴覚障害者の平均賃金は高くなると予測できると指摘しました。

そのうえで、労働者全体の平均賃金の85%をもとに算出すべきという判断を示し、これにもとづいて運転手側に3700万円余りの賠償を命じました。

「差別を認める判決だ」

安優香さんの両親は判決を受けて「差別を認める判決だ」と涙ながらに訴えました。
母親・さつ美さん
「娘は努力を重ねて頑張って11年間生きてきましたが、それは無駄だったのでしょうか。聴覚障害者というだけで社会に受け入れてもらえないのでしょうか」
父親・努さん
「結局、裁判所は差別を認めたんだなというがっかりした気持ちです。なぜ娘の努力を否定されなければいけないのか。悔しくてたまらないです」

障害者の逸失利益の変遷とこれから

障害者の「逸失利益」をめぐっては、過去にはゼロと判断されることもありました。

しかし、障害者を支える技術が進歩したことや、企業に義務づけられている障害者の雇用率が引き上げられたことなどから、裁判所の判断も変わりつつあります。

4年前の東京地方裁判所の判決では、事故で死亡した重い知的障害のある少年について、特定の分野での優れた能力を評価し、障害のない少年と同じ水準の「逸失利益」が認められています。

そうしたなかでの今回の判決。

障害者の損害賠償に詳しい専門家は「偏見を抜きに社会がどうあるべきだという判断が必要だ」と指摘しました。
立命館大学 吉村良一名誉教授
「社会の変化や安優香さんの頑張りについて肯定的な評価はあるものの、障害があれば労働能力が低いという決めつけになっている。障害者雇用の制度の変化やコミュニケーションツールの進歩を判決に反映させる流れがあった中で、もう一歩進めていいケースだったと思う」

障害者の働く場が広がる中、時代にあった判断をすべきだという声が社会的に高まっています。