1978年に北朝鮮に拉致された蓮池薫さん(65)は、2002年の日朝首脳会談の後、24年ぶりに帰国を果たしました。
当初、北朝鮮での体験や拉致問題に対する考えをメディアや公の場で話すことに慎重な姿勢を崩さなかった蓮池さんは、その理由について、「自分の発言が与える影響を考えれば、残された被害者の帰国にとってプラスよりもマイナスになるのではと感じていた。自分が知っていることが多くの方に伝わると、北朝鮮側にマイナスの要素として捉えられる可能性があった」と振り返りました。
この姿勢に変化が見られるようになったのは帰国して10年ほどがたった頃からでした。
蓮池さんは「この歳月の中で、解決に向けた展望が、明るくなるより厳しさを増していくような感触を受けていた。『このままでは本当に解決できないまま終わってしまうかもしれない』という危機感が日に日に増してきた。私自身が世論を喚起したり、政府が方策を考えるうえでの材料になればという思いが強くなってきた」と明かしました。
心境の変化の背景には、自分たちを最後に被害者が帰国できていない現状への怒りと、政府に対する厳しいまなざしがあったと語る蓮池さん。
この間、講演などで一貫して訴えてきたことばが「夢と絆」です。
蓮池さんは「私は帰国でき、夢を追い、家族と会うことができる環境の中で暮らせるようになった。しかし、まだ帰ってきていない被害者は、40年以上も夢を絶たれ、希望を絶たれ、家族との絆も絶たれてしまっている。残された被害者にとっての『夢と絆』を何としても取り戻さないといけない」と強調し、被害者全員の帰国に向けた政府の具体的な行動と世論の後押しを求めました。

北朝鮮拉致被害者 5人の帰国から20年 それぞれの活動、思いは
北朝鮮に拉致された被害者のうち5人が帰国して、15日で20年がたちました。
NHKのインタビューに応じた、その1人、蓮池薫さんは当初はメディアへの対応にも慎重な姿勢を崩さず、公の場で発言することは控えてきました。
その蓮池さんが、残された被害者の帰国を強い口調で訴えるようになった背景には、遅々として展望が開けない現状への怒りがありました。

蓮池薫さん 祐木子さん夫妻の20年
蓮池薫さん、祐木子さん夫妻は、1978年、新潟県柏崎市の海岸から北朝鮮に拉致されました。
2人は、北朝鮮での生活を余儀なくされた24年間を経て、2002年に帰国を果たし、このうち薫さんは、地元の柏崎市役所の臨時職員として広報紙の制作などの仕事に携わりました。
2004年に退職後、新潟産業大学で韓国語の講師を務めた薫さん。
仕事のかたわら、拉致された当時通っていた中央大学にも復学し、法律の勉強を続け、2008年に卒業しました。
小説などの翻訳も手がけ、2009年には、北朝鮮での体験などを初めてつづった手記「半島へ、ふたたび」が優れたノンフィクション作品に贈られる賞を受賞しました。
新潟大学の大学院で修士課程を修了した薫さんは、現在、新潟産業大学経済学部の准教授として、韓国語や異文化コミュニケーションなどを教えています。
また、今も各地を回って講演活動を続けていて、自身の北朝鮮での体験や問題の解決に何が必要かを訴えています。
妻の祐木子さんは、柏崎市内の保育園で調理補助として働いたあと、現在は退職しています。
2人の子どもはすでに自立し、それぞれの道を歩んでいます。
2人は、北朝鮮での生活を余儀なくされた24年間を経て、2002年に帰国を果たし、このうち薫さんは、地元の柏崎市役所の臨時職員として広報紙の制作などの仕事に携わりました。
2004年に退職後、新潟産業大学で韓国語の講師を務めた薫さん。
仕事のかたわら、拉致された当時通っていた中央大学にも復学し、法律の勉強を続け、2008年に卒業しました。
小説などの翻訳も手がけ、2009年には、北朝鮮での体験などを初めてつづった手記「半島へ、ふたたび」が優れたノンフィクション作品に贈られる賞を受賞しました。
新潟大学の大学院で修士課程を修了した薫さんは、現在、新潟産業大学経済学部の准教授として、韓国語や異文化コミュニケーションなどを教えています。
また、今も各地を回って講演活動を続けていて、自身の北朝鮮での体験や問題の解決に何が必要かを訴えています。
妻の祐木子さんは、柏崎市内の保育園で調理補助として働いたあと、現在は退職しています。
2人の子どもはすでに自立し、それぞれの道を歩んでいます。
安否不明の拉致被害者は12人

政府が北朝鮮による拉致被害者と認定している17人は、1977年から83年までの7年間に相次いで拉致されました。
このうち、日本国内からは、帰国した5人を含む横田めぐみさんなど13人、ヨーロッパからは有本恵子さんなど3人が拉致されました。
また田中実さんはヨーロッパへ向けて出国後に消息を絶ちました。
蓮池薫さん、祐木子さん夫妻と地村保志さん、富貴恵さん夫妻それに曽我ひとみさんの5人は、2002年の日朝首脳会談のあと帰国を果たしましたが、このほかの12人の安否は分かっていません。
北朝鮮は、このうち8人について「死亡した」としていますが、死亡を証明する書類が存在しなかったほか、「横田めぐみさんや松木薫さんのものだ」として出してきた遺骨から別人のDNAが検出されるなど、その説明を裏付ける証拠は全く示していません。
また、「ガス中毒」や「心臓まひ」など、8人が死亡に至った状況の説明にも不自然であいまいな点がありました。
このほか、北朝鮮が入国そのものを否定したり未確認だとした曽我ミヨシさんなど4人のケースについても、拉致に北朝鮮が関与したことが警察の捜査で明らかになっています。
このうち、日本国内からは、帰国した5人を含む横田めぐみさんなど13人、ヨーロッパからは有本恵子さんなど3人が拉致されました。
また田中実さんはヨーロッパへ向けて出国後に消息を絶ちました。
蓮池薫さん、祐木子さん夫妻と地村保志さん、富貴恵さん夫妻それに曽我ひとみさんの5人は、2002年の日朝首脳会談のあと帰国を果たしましたが、このほかの12人の安否は分かっていません。
北朝鮮は、このうち8人について「死亡した」としていますが、死亡を証明する書類が存在しなかったほか、「横田めぐみさんや松木薫さんのものだ」として出してきた遺骨から別人のDNAが検出されるなど、その説明を裏付ける証拠は全く示していません。
また、「ガス中毒」や「心臓まひ」など、8人が死亡に至った状況の説明にも不自然であいまいな点がありました。
このほか、北朝鮮が入国そのものを否定したり未確認だとした曽我ミヨシさんなど4人のケースについても、拉致に北朝鮮が関与したことが警察の捜査で明らかになっています。
地村保志さん 富貴恵さん夫妻の20年

地村保志さん、富貴恵さん夫妻は、1978年、福井県小浜市の海岸から北朝鮮に拉致されました。
2人は、帰国した翌年の2003年4月、地元の小浜市でそれぞれ就職しました。
保志さんは小浜市の職員として食のPRや観光振興などに携わり、富貴恵さんは福井県の嘱託職員として出先機関でパスポートの交付などの業務を担当しました。
また、ほかの拉致被害者の救出を求める会合や署名活動にたびたび参加し、問題の早期解決を呼びかけてきました。
2016年3月に小浜市役所を定年退職した保志さんは、拉致問題のことを子どもたちにも知ってもらおうと、4年前から地元の小中学校でみずからの体験を語る活動をしています。
また、ことし5月には、新型コロナの感染拡大で見合わせていた署名活動を再開するなど、今もなお、残された被害者の帰国に向けた世論の支援を呼びかけています。
3人の子どもたちはいずれも結婚し、長女は金融機関に勤め、長男は県内の大学を卒業後、地元の電子部品メーカーで技術者として働いています。
次男は大阪の大学を卒業後、福井市に本社がある化学メーカーで勤務しています。
15日、地村さんは地元の小浜市で支援者とともに署名活動を行い、「残された被害者の救出にご協力ください」と呼びかけると、通りかかった人が次々と応じていました。
このあと記者会見に臨んだ地村さんは、はじめに北朝鮮での生活を振り返り、「決して忘れてはいけない過去だが、帰国してからの現実の方が生々しく、だんだん記憶が薄れています」と話しました。
そして、帰国後の20年間に触れ、「拉致問題は解決しておらず、きょうを20年目の節目や記念日として捉えることはできません」と述べ、北朝鮮に残された被害者の救出への道筋が見えないことに危機感を訴えました。
そのうえで、被害者自身も高齢化が進んでいるとして、「いま救出しないと奪還が難しくなる。北朝鮮との交渉は進展しておらず、口先ばかりでは解決への道は開けない。政府は水面下や実務者での協議を進めてほしい」と求めました。
2人は、帰国した翌年の2003年4月、地元の小浜市でそれぞれ就職しました。
保志さんは小浜市の職員として食のPRや観光振興などに携わり、富貴恵さんは福井県の嘱託職員として出先機関でパスポートの交付などの業務を担当しました。
また、ほかの拉致被害者の救出を求める会合や署名活動にたびたび参加し、問題の早期解決を呼びかけてきました。
2016年3月に小浜市役所を定年退職した保志さんは、拉致問題のことを子どもたちにも知ってもらおうと、4年前から地元の小中学校でみずからの体験を語る活動をしています。
また、ことし5月には、新型コロナの感染拡大で見合わせていた署名活動を再開するなど、今もなお、残された被害者の帰国に向けた世論の支援を呼びかけています。
3人の子どもたちはいずれも結婚し、長女は金融機関に勤め、長男は県内の大学を卒業後、地元の電子部品メーカーで技術者として働いています。
次男は大阪の大学を卒業後、福井市に本社がある化学メーカーで勤務しています。
15日、地村さんは地元の小浜市で支援者とともに署名活動を行い、「残された被害者の救出にご協力ください」と呼びかけると、通りかかった人が次々と応じていました。
このあと記者会見に臨んだ地村さんは、はじめに北朝鮮での生活を振り返り、「決して忘れてはいけない過去だが、帰国してからの現実の方が生々しく、だんだん記憶が薄れています」と話しました。
そして、帰国後の20年間に触れ、「拉致問題は解決しておらず、きょうを20年目の節目や記念日として捉えることはできません」と述べ、北朝鮮に残された被害者の救出への道筋が見えないことに危機感を訴えました。
そのうえで、被害者自身も高齢化が進んでいるとして、「いま救出しないと奪還が難しくなる。北朝鮮との交渉は進展しておらず、口先ばかりでは解決への道は開けない。政府は水面下や実務者での協議を進めてほしい」と求めました。
曽我ひとみさんの20年

曽我ひとみさんは、1978年、新潟県佐渡市の自宅近くで、買い物から帰る途中、母親のミヨシさんとともに北朝鮮に拉致されました。
当時19歳でした。
2002年に帰国したあと地元の佐渡市に戻り、自治体などの支援を受けながら准看護師の資格を生かして嘱託職員として働きました。
2004年には、北朝鮮で結婚した元アメリカ軍の兵士、チャールズ・ジェンキンスさん、それに2人の娘との日本での再会が実現。
再び一緒に暮らすことになりました。
2007年からは佐渡市の職員として福祉施設で介護の仕事をしています。
日本語を学んだ2人の娘のうち、長女は専門学校で保育士の資格を取って保育園に勤務しています。
次女は酒造会社で勤めたあと、2014年に結婚し、佐渡市を離れて生活しています。
夫のジェンキンスさんは、市内の観光施設でみやげ物の販売員として働き、観光振興に貢献したとして感謝状を贈られたこともありましたが、2017年に77歳で亡くなりました。
曽我さんが最も気がかりなのは、ことし12月に91歳の誕生日を迎える母、ミヨシさんのことです。
拉致から44年がたった今も消息は分かっておらず、曽我さんは、ミヨシさんをはじめ、拉致被害者の一刻も早い帰国を求める署名や講演活動を続けています。
当時19歳でした。
2002年に帰国したあと地元の佐渡市に戻り、自治体などの支援を受けながら准看護師の資格を生かして嘱託職員として働きました。
2004年には、北朝鮮で結婚した元アメリカ軍の兵士、チャールズ・ジェンキンスさん、それに2人の娘との日本での再会が実現。
再び一緒に暮らすことになりました。
2007年からは佐渡市の職員として福祉施設で介護の仕事をしています。
日本語を学んだ2人の娘のうち、長女は専門学校で保育士の資格を取って保育園に勤務しています。
次女は酒造会社で勤めたあと、2014年に結婚し、佐渡市を離れて生活しています。
夫のジェンキンスさんは、市内の観光施設でみやげ物の販売員として働き、観光振興に貢献したとして感謝状を贈られたこともありましたが、2017年に77歳で亡くなりました。
曽我さんが最も気がかりなのは、ことし12月に91歳の誕生日を迎える母、ミヨシさんのことです。
拉致から44年がたった今も消息は分かっておらず、曽我さんは、ミヨシさんをはじめ、拉致被害者の一刻も早い帰国を求める署名や講演活動を続けています。
横田めぐみさんの同級生たち1日も早い再会を誓い合う
中学1年生の時に北朝鮮に拉致された横田めぐみさんの当時の同級生たちが、地元、新潟でチャリティーコンサートを開き、めぐみさんとの思い出の曲を合唱して1日も早い再会を誓い合いました。
このコンサートは45年前、中学1年生の時に北朝鮮に拉致された横田めぐみさんの小中学校の同級生たちが毎年開催しています。
はじめに、会場と電話をつないだめぐみさんの母親の早紀江さんが、集まった人たちに「あと一歩と思いながら体にむち打って頑張っています。みんなで力を合わせて頑張っていきましょう」と呼びかけました。
また、弟の哲也さんも「同級生の皆さんと会って、姉もこんな感じなのかなと想像を巡らせていました。親やきょうだいが生きているうちに拉致被害者が帰って来ることこそがゴールです。政府は結果を出してほしい」と話しました。
コンサートには、きょうで帰国から20年がたった拉致被害者の曽我ひとみさんも参加し北朝鮮でめぐみさんと暮らした一時期を振り返ったうえで、「めぐみさんには体に気をつけてほしい。日本に帰ることを諦めないでほしい」と呼びかけました。
そして、めぐみさんの同級生でバイオリニストの吉田直矢さんが演奏を披露し同級生たちが、校内の合唱コンクールでめぐみさんも歌ったことがある「翼をください」を合唱して1日も早い再会を誓い合いました。
このコンサートは45年前、中学1年生の時に北朝鮮に拉致された横田めぐみさんの小中学校の同級生たちが毎年開催しています。
はじめに、会場と電話をつないだめぐみさんの母親の早紀江さんが、集まった人たちに「あと一歩と思いながら体にむち打って頑張っています。みんなで力を合わせて頑張っていきましょう」と呼びかけました。
また、弟の哲也さんも「同級生の皆さんと会って、姉もこんな感じなのかなと想像を巡らせていました。親やきょうだいが生きているうちに拉致被害者が帰って来ることこそがゴールです。政府は結果を出してほしい」と話しました。
コンサートには、きょうで帰国から20年がたった拉致被害者の曽我ひとみさんも参加し北朝鮮でめぐみさんと暮らした一時期を振り返ったうえで、「めぐみさんには体に気をつけてほしい。日本に帰ることを諦めないでほしい」と呼びかけました。
そして、めぐみさんの同級生でバイオリニストの吉田直矢さんが演奏を披露し同級生たちが、校内の合唱コンクールでめぐみさんも歌ったことがある「翼をください」を合唱して1日も早い再会を誓い合いました。