森英恵さん死去 『マダム・バタフライ』世界中から悼む声

ファッションデザイナーの森英恵さんが亡くなったことを受けて、親交の深い人たちから悼む声が寄せられました。

黒柳徹子さん「スカーフの蝶は世界に舞った」

森英恵さんと深い親交があった黒柳徹子さんは、コメントを寄せ、「とても悲しい。私は森英恵先生にたくさんのすてきなお洋服を作っていただきました。森先生は美しい方でした。お作りになるお洋服は女性的で、感覚的で、しかも品格があり、外国のどこに着て行っても堂々としていられました」と振り返りました。

そのうえで、「昔、外国で1ドルくらいで扱われていたスカーフの蝶々を森先生がご覧になって、いつか、この蝶々を世界的にすると、決心なさったそうです。そして世界に蝶は舞いました」としたためました。

このほかに森さんの家で、女優のオードリー・ヘプバーンなど世界中の有名人と一緒に食事をした思い出や、フランスでオートクチュールデザインを極めたあとも、新しいデザイナーを推薦して励ましていたというエピソードを紹介し、森さんの温かい人柄をしのびました。

そして、「森英恵先生。お疲れ様でした。私はいつまでも先生のお洋服が着られる体型にして、美しくいたいと思います。そして数えきれないお礼を申し上げます。ありがとうございました」と結んでいます。

コシノヒロコさん「日本でモード築き上げた大先輩」

亡くなった森英恵さんと親交が深かったファッションデザイナーのコシノヒロコさんは「若い頃からの憧れで、本当にいろいろなことを相談させていただきました。私と生き方が似ているところもあって、『あなたは後継者よ』と、励みのことばもかけてくれました。人柄が本当にすばらしく、かなり力づけてもらったので、亡くなってしまったことは本当にショックです」としのびました。

そのうえで、「日本でモードという世界を築き上げた大先輩という存在です。もともとの洋服がもつエレガントさを、女性の服を通じて知らせてくれました。もの作りの思想や、女性らしい優しさが自然と作品に出ていて、すべての方向性が私にとってまぶしい人でした。私が海外で作品を発表した時には『これからも頑張ってね。私の思いを受け継いでくれてうれしい』とおっしゃって、とても励まされたことを覚えています」と振り返りました。

実業家 奥谷禮子さん「戦後の女性の職業開拓の先駆者」

1986年に森英恵さんとともに、女性として初めて経済同友会の会員になった実業家の奥谷禮子さん(72)は「ハナエモリは多くの女性たちの憧れのブランドで、本人は大人の女性というか、すてきな感じの人でした。ファッションだけでなく、戦後の女性の職業開拓の先駆者として活躍した本当に偉大な方でした」と話していました。

孫の森泉さん「楽しい思い出と貴重な体験をありがとう」

亡くなった森英恵さんの孫で、モデルやタレントとして活動している森泉さんは、自身のSNSで、英恵さんと一緒に撮った写真とともに「たくさんの楽しい思い出と貴重な体験をありがとう」というメッセージを掲載しました。

彫刻の森美術館 事務局長「時にはおちゃめな人」

亡くなった森英恵さんは、2012年から、神奈川県箱根町にある「彫刻の森美術館」の館長を務めていました。

美術館を運営する彫刻の森芸術文化財団の中曽根高志事務局長は「森さんは緑に囲まれた美術館と芸術を愛していました。人柄は明るく、時にはおちゃめなところもある人でした」と話していました。

また、「これまでは年に数回は美術館にいらっしゃっていましたが、コロナ禍になってからは遠出を控えて、自宅でお過ごしだったと聞いています。亡くなったとお聞きし、気持ちの整理がまだできていません」と話していました。

「ファッション」柱の美術館開館に助言も

益田市にある複合文化施設、島根県芸術文化センターでは、接客に当たる職員の制服を森さんがデザインしました。
スカーフやポシェットには森さんを象徴する蝶のモチーフが施されています。

施設内にある県立石見美術館の南目美輝学芸課長は森さんと20年以上、交流を続けてきました。

平成17年、「ファッション」を1つの柱に美術館を開館するに当たり、森さんからさまざまなアドバイスをもらったといいます。

南目さんは「大きな存在を失い、ぼう然としている。森先生には展示会などでも、ご指導いただいた。穏やかで気さくな方で、お会いするたびに、たわいもない会話をしたり、『頑張りなさい』と気にかけてくれたり、優しい人だった」と、その人柄について語りました。

最後に直接会ったのは、3年前、東京の事務所を訪れた時だということで、「ファッションにまつわる展示会を続けていくことが先生の思いを引き継ぐことになると思うので、今後も頑張っていきたい」と話していました。

出身地 島根県産の農産物示すマークに「蝶」

島根県吉賀町出身の森英恵さんは、蝶をあしらったデザインで知られています。

地元 島根県のJAしまねでは、島根県産の農産物であることを示すマークとして、森さんがデザインした蝶のマークを平成2年から使っています。

18日、出雲市の集荷所には出荷のピークを迎えたシャインマスカットが、蝶のマークが描かれた箱に入れられ、並んでいました。

JAしまねの槇野直人さんは「この蝶みたいに島根県産の農作物が羽ばたいていけるよう、今後も活用させていただきたいです」と話していました。

海外メディアも功績伝える「ランウェイを魅了」

森英恵さんが亡くなったことを受け、海外メディアも、その功績を伝えています。

このうち、フランスのAFP通信は「蝶をモチーフにした特徴的なデザインから『マダム・バタフライ』という愛称で知られていた」としたうえで、アメリカのレーガン元大統領の妻ナンシー・レーガンさんや、往年のハリウッド女優でモナコの元公妃、グレース・ケリーさんなど、多くの著名人が数十年にもわたって森さんのデザインした服を着用してきたことを紹介しています。

また、アメリカのAP通信は「数々の日本映画の衣装や、皇后、雅子さまのご成婚の際のドレスをデザインしたことで知られていた。現代的でファッション性の高い日本の出現と女性の社会進出の象徴だった」とたたえ、森さんの死を悼んでいます。
ニューヨーク・タイムズは「フランスのオートクチュール組合に入ったアジアで初めての女性として、世界的な知名度を獲得した。デザインは極めて伝統的で、西洋のデザインと日本のタッチを組み合わせることで、双方の文化のデザイナーたちに影響を与え、パリやニューヨークのファッションショーのランウェイを魅了した」と伝えています。

フランソワーズ・モレシャンさん「心から尊敬」

森英恵さんと長年にわたり親交のあったファッションエッセイストのフランソワーズ・モレシャンさんは「訃報を聞いて涙が止まりません。デザイナーとしてだけでなく人間としても心から尊敬していました。森さんは、とても国際感覚の豊かな人で、日本の文化をファッションに生かして、パリでも親しまれていました。高田賢三さんや、三宅一生さんなどすばらしい方が次々に亡くなられたあとでもあり、本当に寂しいです」と話していました。

“さまざまな意味でパイオニア的な存在”

森英恵さんは、戦後、日本人が自信を取り戻そうとしていた時代に日本の文化を取り入れたデザインで世界のファッション界に大きな影響を与えました。

ファッションの歴史に詳しい服飾研究家の深井晃子さんは、森さんは、さまざまな意味でパイオニア的な存在だったと指摘します。

その1つが、日本の文化を取り入れたデザインです。

1965年にニューヨークで発表した初の海外コレクションで、ブランドの代名詞となる蝶をモチーフに日本の伝統美を表現しました。

深井さんは「森さんは着物の柄を思わせる日本の染色デザインを尊重した洋服を作った。当時、デザイナーとして、日本の文化と洋服という西洋の文化を融合して認められた功績はとても大きい」と話しています。

また、日本人の海外進出、そして、女性の社会進出という面でも森さんはパイオニア的な存在でした。

深井さんは「森さんは1960年代には、すでに世界を目指していて、日本のファッション界で最初に海外で足跡を残したのが森さんだった。森さんが地ならしをしていったことで、あとに続く日本のデザイナーたちが海外で活躍できた」と指摘しました。

そして、「森さんは戦後、生活に困って洋裁を始めたわけではなく、女性として自立するという明確な目的意識を持っていた。分野として勝ち目がありそうなのは洋服だと思ったのだろう。デザイナーの大事なところは先を読む力だ。そういう意味でもパイオニアだった」と話していました。

森さんは、1977年に日本人として初めてパリの高級注文服の組合「オートクチュール組合」の会員になりました。

深井さんによりますと、当時、既製服が普及する中、高価な注文服=オートクチュールの業界は、日本人で正会員になるのは非常に難しいことだったということです。

また、森さんは、1956年公開の映画「太陽の季節」や「狂った果実」など、1950年代から数多くの日本映画の衣装を手がけたことでも知られています。

これについて、深井さんは「当時の映画は影響力が大きく、俳優が着る洋服は、今で言うインフルエンサーのようなものだった。森さんの服が若者に大きな影響を与えた」と話していました。