“敵兵の子”と呼ばれて わが子を手放した母たちの手紙

“敵兵の子”と呼ばれて わが子を手放した母たちの手紙
暗いトンネルの入り口に幼い男の子を置いて立ち去る母親。泣いて追いかける子どもの声が響いても、振り返ることはなかったといいます。

終戦直後、日本人の女性と米兵などとの間に生まれた子どもたち。ことし、その母親たちが記した19通の手紙が発見されました。

なぜ母のもとで育つことができなかったのか。戦後77年まで生き抜いた子どもたちの証言です。
(社会部記者 小林さやか)

トンネルの先のホームで育った2000人の子どもたち

「お母さんが3歳くらいの男の子を置いてね。そしたらトンネルの入り口をママー!ママ-!って追いかけるんだよ。泣いて泣いてね。でも、お母さんは振り返らない。トンネルの中を走り抜けて行く。それを私は見てたの。毎日繰り返されるの、同じ事が」
トンネルの先にあったのは、神奈川県大磯町の「エリザベス・サンダース・ホーム」。

ここは戦後、日本の女性と米兵など外国人兵士との間に生まれた子どもたちのために作られた施設です。

当時、子どもたちは“敵兵の子”などと呼ばれ、差別を受けたといいます。
ホームを創設したのは三菱財閥の創始者である岩崎彌太郎の孫、澤田美喜。

私財を投げ打ち寄付をかき集め、1948年に最初の子どもを受け入れて以来、1980年に亡くなるまで30年余りの間に、およそ2000人を養育しました。

発見された19通の手紙 わが子を手放した「母たちの思い」

今は一般的な児童養護施設として運営されているホームには、当時の資料が残されています。

ことし、その中からホームに子どもを預けた母親などが寄せた19通の手紙が見つかりました。
「結婚するつもりだったその人は今アメリカの本国へ帰ったまま何の便りもありません。それに最後に逢った時は、誰れの子供かわからないから養育費も出せないと云った」
「主人に捨てられ、職もなしお金もない今、●●(子どもの名前)を抱えていたら私はどんなにじりじりと心を乱してうえ死にするだけです」
「池袋駅西口で進駐軍二名にピストルで強要強姦され妊娠出生」
手紙には母親たちが抱えた切実な事情が綴られていました。

戦後、外国人兵士との間に生まれた子どもたち

戦後、外国人兵士を相手に、恋愛関係になった女性、大陸からの引き揚げの途中で強姦された女性、体を売って生計をたてた女性…。

さまざまな事情の中で外国人兵士との間に子どもを宿したといいます。
多くの外国人兵士たちは女性と子どもを残して、本国や次の戦地へ移っていったといい、“敵兵の子”として社会から冷たい視線が注がれる中で、出産された赤ちゃんが街に遺棄されることも相次ぎました。

ホームのトンネルにも設立から1年の間におよそ100人の子が置き去りにされたといいます。
今回発見された手紙にも、母親たちが差別から子どもを守ろうとする心情が綴られていました。
「『アメリカ』『日本』など子供同士の戦争さながらの姿を目のあたりに見ましては本当にたへられないので御座ゐます。解る様で解らぬ子供はアメリカ人と言われ乍ら解せぬ顔で私にあの子がこう言ったとうったえに参ります。可愛くて離す事が出来ず、といって手元においては子供達にからかわれます」

“誰も遊んでくれない” 進学さえも議論に

そのホームで育った1期生、黒田俊隆さん(75歳)。

米兵の父親との間に生まれたという黒田さんは、幼い頃、母親に連れられてホームに来たことを覚えているといいます。
黒田さん
「一番最初の記憶は、ホームに来た頃。ホームに連れてこられて、話をするからここにいてねって、ベッドで寝ちゃったんだ。目が覚めた時にお袋はいなかったんだよ。『お袋に捨てられた』と思ったことは覚えている。当時はそういう風に解釈していたんだ」
6歳になり小学校進学を控えた頃、黒田さんたちのような米兵などとの間に生まれた子どもを、地域の小学校に進学させるべきかという議論が巻き起こります。
1953年、当時の厚生省が初めて行った実態調査では、「誰も遊んでくれない」という回答が一定数あり、厚生省は「一般児童と差別されないようすべての児童と平等に育てるべき」といった通知を出します。
当時の文部省も一般の小学校で受け入れるよう方針を定めました。

しかし、地域の記録には「日本人の親の感情的抵抗も相当ある」と記されるなど、実際には受け入れを好ましく思わない声も上がったといいます。
黒田さん
「あとから聞いた話だけど進学を反対されたらしいね。“混血”だからでしょう。俺たちは、親からじゃなくて街から虐待されたからね。木でたたかれたり、石を投げられたりしたからね」

ホームの中に学校を建設 トンネルで隔たれた“楽園”

子どもたちから“ママちゃま”と慕われていた澤田は、子どもたちを守ろうとホームの中に学校を建設。

黒田さんたちはトンネルで隔てられたホームの中で、外の社会と切り離されて育ちました。

「“楽園”のような場所だった」と語ります。
黒田さん
「一切血はつながっていないけど、あそこで育って同じ教育を受けた兄弟、家族なんだ。その上にママちゃま(澤田美喜)が立っている。俺たちにとってはお袋なんだよ。自分が“混血”だとか日本人だとか全然考えなかった。ホームの中だけで楽しかったの、出なくても」

就職でも“社会から拒まれ” アマゾンへ

しかし、社会に出る頃には就職差別という壁が立ちはだかります。
澤田は子どもたちを新天地で生活させようと移民としてブラジルに送り、その第1陣としてアマゾンに渡った黒田さんは農場の開拓に従事しました。

日本に未練はなかったといいます。
10年以上たって帰国した黒田さんは看護師の資格を取得。

自分のように理不尽な差別を受ける人を支えたいと、岩手県の精神病院で定年まで勤め上げました。

ホームの記憶を支えに、戦後を生き抜いた黒田さん。

今回見つかった母たちの手紙から、感じたことがありました。
黒田さん
「お袋が産んでくれたから今の俺がいる。そしてホームで育てられたから今の俺がいるんだ。産み捨てるっていう言葉は嫌だけど、産み捨てるようなことはなかったんだね。親が悪いんじゃない。

戦争があって終戦があったからこそ俺たちが生まれているわけであって、憤りをぶつけるとした戦争でしょう。戦争自体がダメなんだ」

結婚や子育てでも…断ち切れなかった“差別”

自らも子を育てる中でわが子を手放した母たちに思いを寄せる人もいます。

黒田さんと同じく、ホーム1期生の東谷米子さん(75歳)。
米兵などとの間に生まれた女の子たちの戦後は厳しく結婚や子育てでも差別にあい、中には結婚相手から子どもを生むことを許されなかった人もいたといいます。
米子さんも、ホーム卒業後間もなく、日本人の男性と結婚。

3人の子どもに恵まれたものの苦労の連続だったといいます。

しかし帰る場所もなく、ホームにいた頃に取ったマッサージの資格を頼りに、昼も夜も必死で働きました。
自分と同じ思いをさせまいと懸命に子育てをしましたが、その子どもたちもまた、いじめられました。
米子さん
「小学校に入るときに子どもたちに言ったの。何でいじめられるのかって。日本とアメリカの戦争で、おじいちゃん、おばあちゃんの息子が兵隊でとられて死んでるかもしれない。そのおばあちゃんにとっては憎き敵兵になる。そういう歴史を背負って生きてきている。

お母さんはホームという特殊なところに入って、いい人たちに育てられたけど、あんたたちは普通の街の小学校で相手800人のところに、きょうだいだけで入っていく。だからいじめられるもんだって思いなさいって。なぜいじめられるかわからないのが一番不幸だから。子どもは責められる必要は全くないけど、宿命だから」
一方で、自身は子どもを手放した母たちに複雑な思いを抱いてきました。

母親のもとに会いに行き、傷付いて帰ってくる同級生などを見てきたからです。
米子さん
「大人になって、ホームの同級生や後輩たちがお母さんを探したいって言い出す。私はやめなさいって。あんた2度殺されるぞって。1回ホームに突っ込まれて殺されて、今度会いたいなんていって出て行って、お母さんがあんたを抱きしめると思うの?って。

子どもを置いてきたってひっかかっているから、邪険にするわけにもいかない。でもあまり寄ってきてもらっちゃ困る。それが現実。遠くから見てろって言ったの」
自分からは母親に会いに行かないと決めていましたが、大人になって偶然、母親の所在がわかり、自分の出生の事情を知ることになります。
米子さんの母親は、戦後、今のソウルから日本に命からがら引き揚げてくる道中、護衛として派遣された米兵と恋愛関係になったといい、日本に到着した時にはすでに妊娠7か月。

母親の家族は、出産後すぐに米子さんを引き離し、施設に入れることを決めました。

母親は施設の人が迎えに来る前日、米子さんを抱えて病院の屋上から飛び降りようとしたと語ったといいます。

子を産み育て、わかる母の思い いま願うことは

自らも、わが子を差別やいじめから守ろうとしてきただけに、その心情は痛いほどわかったといいます。
米子さん
「お母さんがかわいそうだなって思った。私なら発狂しちゃう。子どもを絶対離さないと思うよ。

でも、あの時代に育てて行くことがどれくらい危険なことか。育てたくてもできなかったというのはすごく大きかったと思う。自分がやられなくたって子どもはやられるんだから。手放したくて手放したわけじゃない。非情な母親ばかりじゃないと思うよ」
夫をみとった米子さんはことし、ひとり大磯町に引っ越し、マッサージ店を開業しました。

残りの人生を育ったホームのそばで過ごすためです。

今回見つかった母親たちが寄せた手紙から米子さんが思うのは、今も世界で起きている戦争とそこで生まれ育つ子どもたちのことです。
米子さん
「ひとたび戦争が起きたら、自分たちのように敵対する関係の中で子どもが生まれ、同じように差別が繰り返される。今の時代にそんなことは起こらないと思うかも知れないけれど、戦争とはそういもので絶対になくならない。人間ってそういうものだから。だから戦争はしてほしくない」
“敵兵の子”と呼ばれながらも、戦後77年まで生き抜いたかつての子どもたちの願いです。
社会部記者
小林さやか
医療・介護、ジェンダーや子どもの権利について担当 福岡放送局在任中、戦後の引き揚げ時の性被害や孤児の取材をしたことをきっかけに戦時下の女性と子どもについて関心