終戦直後に失われた1700人余の命

終戦直後に失われた1700人余の命
「子どもをおぶったお母さんが『助けて』と手を挙げていたけどみるみるうちに沈んでいきました」

小学5年生の女の子は、船から投げ出され、次々と海に沈んでいく人たちを、ただ見ていることしかできませんでした。

終戦から7日後の北海道沖。樺太、今のサハリンから逃れてきた多くの子どもやお年寄りを乗せた引き揚げ船3隻が攻撃を受け、1700人余りが命を落としました。

いったい誰が、なんのために。戦後77年たっても全容はわかっていません。
(札幌放送局記者 小栗高太)

生き残った乗船者が語る「三船遭難事件」の悲劇

北海道北部の日本海側・小平町に住む三上澄子さん(87)です。

77年前、攻撃を受けた引き揚げ船に乗船していました。

三上さん一家は樺太南部の町・上敷香で暮らしていましたが、昭和20年8月、樺太に侵攻した旧ソビエト軍から逃れるため、引き揚げ船「第二号新興丸」に乗船しました。

船には子どもや女性、お年寄りを中心におよそ3500人が乗り込み北海道の小樽に向けて出港しました。

異変が起きたのは翌日・8月22日の早朝のことでした。
三上澄子さん
「荷物にもたれてうとうとしていたら、爆発でバーンとなってすごい水をかぶりました。そして、板や荷物が落ちてきて、すぐに膝の上くらいまで浸水してきました」
目を開けると、三上さんがいた船倉には大きな穴があき、そこから勢いよく海水が流れ込んでいました。

潜水艦による魚雷攻撃でした。

三上さんは、甲板から下ろされた縄につかまって引き上げてもらい、ぎりぎりのところで浸水する船倉から逃れました。

しかし甲板に上がると、海には今でも忘れられない光景が広がっていました。
「海を見たら荷物と一緒に大勢の人が浮かんでいたんですが、だんだんだんだん潮の流れで沈んで見えなくなっていきました。

一番印象に残っていたのは子供をおぶったお母さんが荷物につかまって、手を挙げて『助けて』と言ってるんですけどね、みるみる間に沈んでいきました。私も子供だし助けられないから、ただ見ていることしかできませんでした」
その海面に突然浮上してきた黒い影、それが潜水艦でした。
「『潜水艦が浮かんできた』と言われて、黒い影が見えて、もう死ぬのかと思いました。あっちからもバラバラって撃ってきて『物陰に隠れて伏せなさい』と言われました」
「第二号新興丸」は多くの犠牲を出しながらも近くの留萌港に入港しました。

ただ同じ日、周辺の海域では同じく樺太から引き揚げる人たちを乗せた「小笠原丸」「泰東丸」の2隻も潜水艦による魚雷攻撃を受け、沈没していました。
犠牲者は3隻であわせて1700人余りに上り、三上さんも多くの親戚を亡くしました。

その後、この日起きたことは「三船遭難事件」と呼ばれるようになりました。

この事件では、被害者が流れ着いた沿岸の各地に慰霊碑が建てられました。

三上さんはいまも8月になると、1人で慰霊碑を掃除したり花を供えたりして、あの日亡くなった人たちを悼んでいます。
「息子が生まれたとき一番最初に思ったのは、もし今あの時のような戦争になったら、この子をどのようにして助けたらいいかということでした。もう平和な時代になっていたのにね。

でも、ウクライナを伝えるニュースを見ると、自分の経験したことと重なって涙が出ます。子どもや孫には絶対に自分のような経験はさせたくないといつも思っています」

全容解明されないまま77年・ウクライナ情勢で危機感

これだけ多くの市民の犠牲を出した「三船遭難事件」ですが、戦後77年たったいまも全容はわかっていません。

当初、船を攻撃した潜水艦は「国籍不明」とされていましたが、1990年代に見つかった資料で旧ソビエト軍の潜水艦による攻撃だったと見られることがわかりました。
しかし、いまのロシアが公式に認めた事実はありません。

また日本政府も2018年、質問主意書に対して次のように答弁しています。
「本事件はソ連太平洋艦隊所属の潜水艦による攻撃であるとの理解でよいか」
(逢坂誠二衆議院議員の質問主意書)


「事実関係を直接確認する手段がないことから、お答えすることは困難である」(政府答弁書)
真相解明は時間がたつにつれ難しくなっていきます。

さらにことし、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻で、日本とロシアの外交関係が悪化したことで、両政府による真相究明がより困難になると、遺族は危機感を強めています。

“事件風化させない” いまこそ後世に伝える戦争

「事件を風化させてはならない」

こう話すのは、三船遭難事件の遺族会で事務局を務める永谷操さん(81)です。

永谷さんを支えているのは、亡き夫の保彦さんの存在です。
事件で母親を亡くした保彦さんは長年、遺族会の会長として慰霊祭を開催してきたほか、外務省を通じてロシアに謝罪を求め続けてきました。

しかし、願いはかなわないまま5年前に88歳でなくなりました。
永谷操さん
「当初からプーチン大統領に要望書を送って謝罪と補償をずっとお願いしてきましたが、もう全く梨のつぶてです。最後は夫が体を悪くして自力で立ち上がれなくなりましたが、それでも要望書を送らなかったことはありません」
夫が亡くなったあと、操さんは1人で遺族会の事務をしてきましたが、すでに年齢は80を超えました。

これからも保彦さんの遺志を継ぎ、少しでも長く遺族会の活動を続けていくため、ことし、空席となっていた遺族会の会長を、別の遺族に託しました。
事件の翌年に生まれた八巻信宏さん(76)です。

船に乗っていた親族16人が亡くなり、父親らから事件の話を聞いて育ちました。

70歳を超えていますが、事件の「第2世代」として後世に伝えていくために会長を引き受けました。
八巻信宏さん
「ロシアは今もウクライナで同じことをやっています。それをみるたびに歴史は変わらないなと悲しい思いです。戦争のニュースが連日流れていますが、2度と起こさないためにも歴史の事実をしっかり伝えていくことが大事だと思っています」
遺族会には最近になっても「親戚が乗船していたかもしれない」といった問い合わせが寄せられます。

そして名簿で乗船が確認されると「胸のつかえがおりた」と感謝されることもあるといいます。

こうした地道な活動が歴史を後世に伝えていくことにつながると操さんは信じています。
永谷操さん
「まずは事件を風化させないことが一番。風化させたら三船遭難事件がなかったことになってしまいますので、風化させずに次の代、その次の代まで戦争のない世の中にしたいという気持ちを持ってやっていきたいと思います」
北海道北部の留萌市、その日本海を望む高台に「三船遭難事件」の慰霊碑があります。

『この悲劇を永遠に忘れないことを誓いながら鎮魂の祈りをこめ恒久の平和を願この地にこの碑を建立する』(「樺太引揚三船殉難 平和の碑」碑文)

小学5年生で悲劇を目の当たりにした三上澄子さんのことばが今も心に残っています。
「長年たつと地元の人でも慰霊碑のことさえよく知らなくなり、時代の流れという諦めが強くなっています。せめて私1人だけでも、生きている限りは先に行った人の分も含めて供養させてもらいたい」
つらい戦争の体験をした人たちだけに頼るのではなく、戦後をいきる私たちが社会全体で、どう体験や教訓を共有し、後世につなぎ、いかしていくのか、これからも考えていきたいと思います。
札幌放送局記者
小栗高太
2021年入局
戦争・事件・事故から巨大地震への備えまで幅広いフィールドで取材