“赤ちゃんポスト” 開設15年 預けられた男性が語る「家族」

“赤ちゃんポスト” 開設15年 預けられた男性が語る「家族」
親が育てられない子どもを匿名で預かる「こうのとりのゆりかご」、いわゆる「赤ちゃんポスト」が熊本市内の民間病院に開設されてから15年。
受け入れてきた子どもはこれまでに161人にのぼります。
かつて預けられた男性が実名で取材に応じてくれました。
(熊本放送局 記者 丸山彩季)

私は「ゆりかご」に預けられました

熊本市の宮津航一さん(18)です。
この春、県内の高校を卒業し、晴れて大学生になりました。

親が育てられない子どもを匿名で預かる「こうのとりのゆりかご」、いわゆる「赤ちゃんポスト」が始まった年に預けられた子どものひとりです。

3歳の時に熊本市の里親に引き取られ、大切に育てられました。

「航一」という名前を付けたのは、当時の熊本市長でした。
「大海原を渡る一そうの船のように力強く生きてほしい」という願いが込められていると里親の父は考えています。

高校では陸上部に入り、短距離走の選手として活躍。
100メートル11秒台の好記録で県大会で準優勝した経験もあります。

大学の入学式には、里親の両親に買ってもらった真新しいスーツを着て出席しました。
宮津航一さん
「大学生になったと、きょうスーツを着て実感しました。ネクタイをちゃんと結んでいるか父に確認してもらいました」

育ての親との幸運な出会い

里親の宮津美光さん、みどりさん夫婦です。
夫婦には、もともと5人の息子がいました。
子育てが一段落したころ「今度は里親になってたくさんの子どもを支援したい」という思いから登録しました。

そのころ、航一さんは児童相談所に移されていて、担当者から「3歳ぐらいの子どもを預かってみませんか」と連絡があったといいます。

航一さんを最初に見た時の印象について、みどりさんは。
宮津みどりさん
「明るい子でニコニコして、一緒にアイスを食べて写真を撮ったけどかわいいと思った」
航一さんが「ゆりかご」に預けられた子どもだと知ったのは、正式に受け入れることが決まったあとでした。
宮津美光さん
「最初、航一が『こうのとりのゆりかご』の子どもというのは全然知らされていなくて、引き受けると言って。正式に決まってからその事を聞き、驚きと不安も感じた」
美光さんとみどりさんは、悲しい過去を上回る深い愛情をもって航一さんと接するよう心がけたといいます。
家族で釣りに行ったり、自宅の庭でバーベキューをしたり、いろいろな思い出をつくりました。

たくさんの愛情を受けて育った航一さんは、自然とふたりを「お父さん」「お母さん」と呼ぶようになりました。
年の離れた宮津家の兄弟にもかわいがられ、1つ屋根の下で、過ごす時間が増えていくにつれて、家族の強い絆が生まれ、航一さんは「自分の居場所」だと感じるようになっていきました。

自分はいったい誰?

航一さんは、自分の“出自”について疑問を抱くこともありました。
「ゆりかご」に預けられたとき、身元がわかるものは何もありませんでした。
名前はもちろん、誕生日や年齢、どこから来たかもわからず、子ども用のTシャツなどが入った袋があっただけでした。
航一さんは、預けられた当時のことをかすかに覚えていました。
新聞やテレビで「ゆりかご」のニュースが取り上げられると「僕は、ここに行ったことがある」と話したといいます。

美光さんとみどりさんは、生い立ちについて包み隠さず伝えるようにしていたため、航一さんは小さいころから、ゆりかごのことやふたりが実の親ではないことを、しっかり受け止めることができたといいます。
宮津美光さん
「やっぱりオープンにする必要があった。出自は分からないからゆりかごに関するニュースが新聞に載っていたら、航一に『ここに載っとる』と教えていた」
ただ、航一さんは自分の“出自”がわからないことに複雑な思いを抱いていました。
小学生の時、自分の生い立ちを振り返る授業がありました。

産みの母親がどんな人なのか、自分はどこで生まれたのか、何も知らないことに改めて気付きました。

授業には、宮津家のいちばん上の兄が赤ちゃんだったころの写真を持っていきました。
宮津航一さん
「自分だけ赤ちゃんの時の写真がなかった。周りとはやっぱり違うので、出自がわからないことに対する複雑な気持ちやモヤモヤとした気持ちというのはあった」

判明した出自、実母はすでに…

その後、自分の出自がわかりました。
実の母親は、航一さんが生後5か月の時、交通事故で亡くなっていたのです。
しかし、実の母親に会えない悲しみより、出自がわかってよかったという気持ちのほうが大きかったといいます。

航一さんと父、美光さんは、東日本にある実の母親のふるさとを訪れ、墓参りをしました。
そして墓前で自分がいま、幸せに暮らしていることや、母への思いをつづった手紙を読み上げました。
母親の同僚からもらった若い頃の母親の写真と、お骨の代わりに墓から持ち帰った黒色の石は、今も大事にいつも見える場所に飾ってあります。

写真には優しい笑顔の母。
髪は自分と同じウェーブがかかり、容姿もそっくりでした。
宮津航一さん
「とても優しそうな母だと思った。生まれたときの事は覚えていないので分からないが母が産んでくれたことでここにいるので感謝しています」

“預けられたその後の人生のほうが大切”

航一さんは、高校3年生だった去年、新型コロナの影響で孤立する子どもたちの居場所を作りたいと、両親とともに子ども食堂を立ち上げました。
将来は、子どもに関わる仕事に就きたいと思っています。
当事者として、航一さんが伝えたかったのはゆりかごに預けられた人の、その後の人生です。
宮津航一さん
「家族的な愛のもとで育つのが子どもにとって必要で、それがあれば出自の問題は、悩んだりするかもしれないが乗り越えられるのではないかと思う。最後にゆりかごを評価するのは当事者だと思う。預けられた経緯ではなく、その後の人生のほうが大切だ」

預けられた子ども161人

「こうのとりのゆりかご」、いわゆる「赤ちゃんポスト」は熊本市西区の慈恵病院に15年前に開設されました。
予期せぬ妊娠をした女性が赤ちゃんを遺棄したり、殺害したりするのを防ごうというもので、これまでに預けられた子どもは161人にのぼります。

助かった命がある一方、「安易な育児放棄につながる」といった批判も根強くあります。

「ゆりかご」を検証する熊本市の専門部会は、預けられた子どものうち155人の背景やその後の養育状況について報告書をまとめました。
それによりますと、航一さんのように出自が判明したのは8割にあたる124人。
一方で、31人については将来にわたって情報が得られない可能性があります。
慈恵病院によりますと、母親の中には「匿名で預けることができるゆりかごがなければ、赤ちゃんと一緒に死んでいたかもしれない」という人もいて、病院は母子の命を守るため、出自よりもまずは匿名性を尊重する必要があるとしています。

慈恵病院は、24時間態勢で相談を受け付けていて、年間数千件にのぼっています。

“赤ちゃんポストの課題”

「こうのとりのゆりかご」、いわゆる「赤ちゃんポスト」に子どもを預ける理由は、生活困窮が最も多く、未婚、不倫、親の反対などさまざまです。
航一さんのように、母親が亡くなったあとの家庭環境の変化で預けられる人もいます。

多くの命が救われた一方で、子どもたちがその後、どんな家庭環境で育っているのか、また、ゆりかごに預けられた過去とどう向き合って過ごしているのか、プライバシーの問題もあって多くが明らかになっていません。

預けられた子どもたちの中には、思春期を迎えた人もいます。
子どもたちのその後の人生について取材し、伝えていきたいと考えています。
熊本放送局 記者
丸山彩季
2018年入局
警察・司法担当を経て20年9月から県政を担当
内密出産や学校のいじめ問題も継続して取材