“針の目を通すような難しい選択” ウクライナ人道危機

「ヒロシマ・ナガサキの過ちを繰り返してはいけない」“生き地獄”とも言われる原爆による想像を絶するような被害を見た被爆者たちは、77年にわたって世界に訴えてきました。
いま、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が続き、プーチン大統領は核兵器の使用の可能性をちらつかせて威嚇しています。国連のグテーレス事務総長は「かつては考えられなかった核兵器を使った紛争がいまや起こりうる状況だ」と強い危機感を示しました。
唯一の戦争被爆国、日本だからこそ伝えられるメッセージを紹介します。
今回は国際政治学者の藤原帰一さんです。
(科学文化部・富田良)

国際政治学者 藤原帰一さんに聞く

藤原帰一さんは長年、平和構築について研究してきた国際政治学者で、国内外の有識者が核兵器廃絶に向けた道筋を探るために広島県などが2013年から開いている「ひろしまラウンドテーブル」の議長を務めるなど、核なき世界の実現に向けた取り組みにも長年携わってきました。この春で東京大学大学院を定年退職したあと、4月からは客員教授を務めています。

国際社会は今の人道危機の状況を打開できるのか、そして核兵器をなくしていく道筋について、藤原さんに聞きました。

古典的で大規模な侵略戦争

Q:今回のロシアによるウクライナへの軍事侵攻について、どのように捉えていますか。

「古典的で大規模な侵略戦争というほかありません。戦争が始まる前に、プーチン大統領が軍事行動を起こした場合は制裁を加えると国際社会から明確に伝えられていて、抑止はあったんだけれど弱かった。短時間に戦闘で大きな成果を収めることを考えている相手の行動を抑止することができず、今回は『抑止の破綻』と呼ばざるを得ないと思います」

3つの可能性 「戦争継続」「エスカレート」「撤収」

Q:停戦のめどが依然として見えません。

「キーウの攻略が大失敗に終わったことで、目的を転じて自分たちの力が比較的ある東部地域に集中する戦略に変わっていますが、プーチン政権が『正しい戦争であり、戦いに勝つ』という意思はずっと揺らいでいない。そこから考えられる今後の可能性は3つあると思っています。
1つ目は東部地域でこう着が続いて多くの犠牲が出る一方で自分たちの立場を強めようと戦争が継続するシナリオで、可能性としては極めて高い。そして、2つ目は大量破壊兵器の使用を含めた戦争のエスカレート、3つ目には『この戦争に勝った、大きな成果を収めた』と主張して、ウクライナの東部地域とクリミア半島に撤収するというシナリオです」

化学兵器 ロシアにとっての敷居は比較的低い

Q:ロシア軍が化学兵器を使用したという情報も出ていますが、今後、生物・化学兵器や核兵器といった大量破壊兵器を使う可能性はあるのでしょうか。

「通常兵器の戦闘で必ずしも有利に戦えておらず、さらに長期間の戦闘でロシア軍の兵士の士気が下がっています。相手に打撃を与えられる大量破壊兵器を使用する可能性は、残念ながらあります。特に化学兵器は使ってはならないけれども、実戦でずいぶん使われてきた兵器でシリア戦争でも使われ、ロシアにとっての敷居は比較的低いだろうと思います」

「今回の戦闘のもう一つのポイントは、ロシア軍の安全についてロシア軍は何も考えていないことです。ロシア軍の兵士の安全に対する関心の薄さ、またロシア軍のウクライナの人々に対する人権意識の薄さは極端なものです。自分の軍隊がどれだけ死んでも構わないんだと覚悟して、化学兵器は十分使用される可能性があります」

核兵器 可能性低いが無視できない

Q:核兵器を使用する可能性は低いと考えていいのでしょうか。

「NATO(=北大西洋条約機構)との間で核兵器でお互いに脅しあっている均衡状態があり、核を使った場合のリスクが高いことは分かっていると思いますが、懸念されるのは相手が核戦争にしないことを期待して核兵器を使用する可能性です。たとえばウクライナでロシアが核兵器を使用した場合、この状況は見過ごせないといってNATOが核兵器をウクライナに使う、あるいは核ミサイルをロシアに発射すると思いますか?私はその可能性は低いと思います。
だとすれば、大量破壊兵器を使った方が有利な状況が続くというわずかな可能性があるんです。このわずかな可能性は、もちろん核戦争の引き金にもなるわけで、これは考えたくないことだし、可能性はかなり低いと思います。
ただプーチン大統領は人道に反する行動であってリスクも大きいキーウ攻略作戦を実行したように、うまくいくんじゃないかという期待からリスクが極めて高い不合理な行動をとった指導者だということを忘れてはいけない。ですから核兵器を使用する可能性は低いと思いますけど、無視できないでしょう」

NATO側 エスカレートできないジレンマ

Q:ロシアの行動に対して、アメリカをはじめとするNATOの国々はどのような対応を今後とるべきだとお考えでしょうか。

「今回の軍事侵攻は世界戦争にエスカレートする可能性がある戦争です。戦争のエスカレート、そしてロシアと直接の戦争を恐れ、ウクライナに対する支援を全面的に展開できないというジレンマがあります。ただ今後、多くの市民が殺害されたブチャ以上の事態が確認された場合、直接介入以外の選択をNATO諸国が選ぶことができない可能性があり、それを私は心配しています」

「核兵器の使用も含めて、この戦争のエスカレーションが起こった時には、ウクライナの人たちだけではなく、広い範囲の人たちの安全と自由が奪われることになってしまう。そしてそれで問題が解決するかといえば、私はそう思わないです。むしろ戦争の規模が拡大することになりかねない」

「本当に針の目を通すような難しい選択ですけれども、ウクライナで殺されている人たちを見殺しにはせず、侵略に対する自衛は正当ですから、ウクライナに対する支援は強化する。しかし大量破壊兵器を相手が使った場合、NATO側がエスカレートすることは絶対してはいけない。一見するとウクライナを救うために正当だと考えるかもしれませんけれども、それは戦争規模を拡大するだけで、悲劇をさらに拡大するだけです。それはしてはならない。とても厳しいジレンマです」

「平和」を作るのも壊すのも軍事力

Q:戦闘のさらなる長期化も懸念されますが、出口はあるのでしょうか。

「容易な出口はないと思います。ただ、侵略によってさらに多くの犠牲が生まれることはあってはならず、犠牲者を思う観点から各国が連帯し、このような侵略を行う政府に対する強い抑制が必要です。制裁には戦争のエスカレートの危険も伴います。平和を作るのも壊すのも軍事力だという二面性がありますが、それが示されている中で、われわれは模索を続けることになる。ただ、私はそこまで悲観していません。現在プーチン政権を支持している国民が戦争の実態を知ったときに見方が変わり、それをきっかけに新しい政府が生まれる可能性はゼロではない。一方で厳しい言い方をすれば、そうした新たな政府が生まれるまで残酷な暴力が続くことになるのだろうと思います」

日本にいる私たち どのような視点を持つべき

Q:今回の侵攻について考える時、日本にいる私たちはどのような視点を持つべきなのでしょうか。

「ロシアによるウクライナに対する軍事侵攻は、市民の安全と自由を奪って民主主義を破壊する工作行為だったわけです。軍事的な安全保障だけで語られてしまうことは大きな問題だと思いました。同じ民主主義である日本は、今回の軍事侵攻がデモクラシーに対する破壊であるという視点を持っているべきだろうと思いますし、そこから何が出てくるかというと、犠牲者に対する共感なんです。
安全と自由を奪われたウクライナの人たちに対する『こんなことがあっていいのか』という共感をベースにしない限り、外交交渉の模索も抑止力の強化もないと思います。安全保障の基本は人々の安全そのものの問題ですからね。報道の中で犠牲者が伝えられている時には、『こんなことがあっていいのか』って犠牲者に対する共感を持っていると思います。それがこの戦争を考えるときの出発点だと思います」

「核兵器削減」 緊張緩和に組み込むことができるか

Q:核兵器の使用が現実的な問題として危惧されています。その中で、唯一の戦争被爆国である日本として核兵器の廃絶を求めていくことについてどうお考えでしょうか。

「核兵器の削減を緊張緩和の手段に使うというポイントがあるんですね。冷戦が終わった時には、当時のソ連がアメリカと核の削減に向けた議論をしていて、それ自体が緊張緩和の役割を果たしてたんです。
われわれが『ひろしまラウンドテーブル』で核兵器廃絶に向けて行ってきた議論というのはまさにそういうことで、中国を巻き込んで核兵器の削減を緊張緩和の手段として使っていくということだったんです。
その中でも一番難しかったのが実はロシアだった。ロシアは核兵器への依存が非常に高い国なんです。中国は実は少しブレていて、軍事的な力を認めさせたいんだけど、何より安定した環境を求めている。
国内政治に対する干渉はしてもらいたくないけれど、核兵器への依存度は必ずしも高くなかったんです。怖いシナリオは中国が核兵器をたくさん持ってロシアとの連携を強めて、それで新たな冷戦の構造に向かっていくということだったので、中国が核兵器への依存を低くするとともに、自分たちの安全が高まるような状況を各国と作っていくことが目的だったんですね。

今、状況はよくないです。ただそれは核兵器の廃絶が夢物語だという話ではなくて、核兵器の削減を緊張緩和のプロセスに組み込むことができるかどうか、それが一番のポイントです」