内村航平 引退会見“人生の半分以上 日の丸背負えたのは誇り”

オリンピックの体操で個人総合では2連覇、世界選手権で6連覇を果たした内村航平選手が都内で引退の記者会見を開き「今のところ特別な感情はないが、人生の半分以上、日の丸を背負ってやってこれたのは誇りだ」と心境を語りました。

内村選手は、ことし3月に東京で演技会を開いて現役生活で最後の演技を披露するということです。

【発言詳細】

冒頭「“引退” 実感はあまりない」

内村選手は、会見の冒頭で「引退会見で特別な感情はなく、ただただ引退するんだなという感じで実感はあまりない。3歳から好きで体操を始めて1月3日で33歳になり、30年の体操歴のうち16年間を強化選手として活動させてもらった。人生の半分以上日の丸を背負ってこられたことは誇りですし、今後、何をするにしても自信を持って発言していけると思っている」と述べました。

“東京五輪後の世界選手権の前には『これが最後だ』と”

引退を決めたタイミングについては「オリンピックが終わって世界選手権に向かう道中、練習していく中でこのまま先が見えないと感じた。世界選手権の前にはこれが最後だと思っていた。世界選手権に挑み、最後の最後は決勝に進んで着地を決めたいという気持ちでそれをやりきれた。下の世代にこれが体操だ、本物の着地だと見せられてよかったかなと思っている」と話しました。

“3月12日に東京体育館で最後の舞台を”

そして「3月12日に最後の舞台を東京体育館でやりたい。全身痛い体にむちを打って、6種目をやろうかと思っている。どういう形でやるかはしっかり打ち合わせをしてほかの選手も呼びたい。自分の最後の演技を見てもらって最後にしようと思う。最後に6種目をやるということで、東京オリンピックの代表になるより苦しいことをやらないといけないので憂うつだが、そこまではしっかりやりきりたい」と笑顔を浮かべながら話しました。

“選手として本気でやっていくのは難しいと感じた”

現在の心境について「やれるならいつまででもやりたいと思っていた。しかし世界選手権に向かうまでに選手として本気でやっていくのは難しいと感じたので引退を決めた。重くも、すっきりともとらえていない」と話しました。

佐藤コーチに感謝のことばも

感謝したい人について聞かれると、「いろいろな人がいるがその中でも佐藤コーチだ」と話し2016年にコーチに就任した高校の後輩でもある佐藤寛朗コーチの存在をあげました。
そのうえで「この5年間マンツーマンでやってきてかなり迷惑をかけた。最後、東京オリンピックで金メダルをかけたかったがそれができなくて残念だ。体操を研究してきて、この場では語り尽くせないほど濃い時間を過ごしてきた。ここに立っているのも彼のおかげだと感じている」と話しました。

追い求めた「着地」“止めるのは当たり前”

自身の演技でこだわった点について「着地だ」と述べたうえで「鉄棒の着地やすべての種目でこだわってきた。世界チャンピオン、オリンピックチャンピオンとして着地を止めるのは当たり前だと思ってやってきた。現役選手として最後の舞台になった(去年10月の)世界選手権の最後もどういう演技でもいいので『着地は絶対に止めてやろう』と思ってやることができた。そこは自分がこだわりを持ってやってきた。最後の意地を見せられた。着地を止めているという印象が皆さんもあると思うし、僕自身も追い求めてやってきた」と話していました。
これまでで印象に残っている演技について「2011年の東京で開かれた世界選手権個人総合の決勝の6種目と、リオデジャネイロオリンピックの個人総合の鉄棒だ」と述べました。
そのうえで「いまでも感覚、視界が記憶に残っている。2011年の世界選手権については、今まで感じたことのないゾーンみたいなものを感じ、朝起きる前からきょうは何をやってもうまくいくという感覚で目が覚め、試合が終わるまですべてうまくいった。これはもう一生出ないと感じた」と振り返りました。
またリオデジャネイロ大会の鉄棒に関しては「大きな点差を逆転でき、オリンピックの体操の歴史に残る激闘をオレグ選手とできた。オリンピックの会場を2人で支配できた感覚が今でも残っている」と述べました。

体操に関わるいろいろなことに挑戦

今後の活動について「これを絶対やりたいという一つのことはない。日本代表の選手や後輩たちに自分の今まで経験してきたことを伝えたり、小さい子どもたちに体操は楽しいと伝える普及活動をしたり体操に関わるすべてのことをやっていけたらと思う。体操に関わるいろいろなことにチャレンジしていきたい」と話していました。

“感謝している気持ちを返していかないと”

体操に対する思いについて「ありがとうとかそんな軽いことばでは感謝を伝えられない。自分は体操しか知らないのでこれだけ体操というもので内村航平が作られ、人間性だけでなく、競技の結果も残せた。感謝している気持ちを返していかないとという気持ちがすごく強い。今後は、体操について僕が世界でいちばん知っているという気持ちになりたい。極めるというよりずっと上まで行きたい」と話しました。

“世界一の練習を積めずもう体操をやっていくのは難しいと”

内村選手は引退を決めた世界選手権の前の状態について「体の痛みというよりは日本代表選手として世界一の練習を積めなかったことでもう体操をやっていくのは難しいと思った。体の痛みというよりもモチベーションとかメンタル的な部分が大きい。以前であればどんなにしんどい日でもやりきることができたが、世界選手権前はオリンピックで予選落ちしたこともあり気持ちを上げていくのが難しかった」と話しました。

五輪「自分を証明する舞台だった」

4大会連続で出場したオリンピックについて「自分を証明できる場所だった。オリンピックが行われる年以外に毎年、世界選手権があって、そこで世界チャンピオンになり続けて『果たして自分は本物のチャンピンなのか』ということを疑い続けてそれを2回オリンピックで証明することができた。自分を証明する舞台だったと思う」と話していました。

リオ五輪後苦難の道のりも「栄光も挫折も経験できた」

2016年のリオデジャネイロオリンピック以降の苦しんだ時期について聞かれると「リオ大会からのここまでは練習が思うようにいかなくなり痛いところも気持ちでカバーできなくなっていったがその中でも練習を工夫するようになった。そして、プロになって普及のことなど体操の価値を上げるためにいろいろなことを考えた。結果はリオ大会までとは程遠いが体操を突き詰めるうえで1番濃い5年間だった。栄光も挫折も経験できたことで今後、金メダリストを目指す人たちに経験を伝えていくうえで貴重な体験だった」と振り返りました。

新技『ウチムラ』なく引退も“それもありかなと”

まだみせていない技があったかと聞かれると「未発表の技はいくつかあるし、試合でやっていれば『ウチムラ』という名前がついた技もあるかもしれないが個人総合でトップを維持するためには必要なかったのでやらなかった。自分の名前の技がついてない状態での引退となるが、それもありかなと思う」と話しました。

“人間を超えられた”経験も

内村選手は印象に残っている演技として挙げた2011年の世界選手権について「人生でいちばん心技体がそろっていた時期で練習量もそうだし、練習の質もすごく高かった。メンタルもあのときが1番強かったなと思うし、痛いところも全くなかった。自分は何をやってもできると思っていた時期で、世界で1番練習していた。自分の演技、体操に対してものすごく自信を持っていた」と振り返りました。

そのうえで「失敗をする気がしないという次元ではなく、この場をどう楽しもうかという強さとはかけ離れた、自分1人だけが楽しんでいる状況だったので、それが強かったと思う。その次の年にロンドンオリンピックがあってその“ゾーン”を再現したいと思ったが、“ゾーン”はねらってやれるものでないと感じた。あれを1回経験できただけでも人間を超えられたと思う」と話していました。

後輩たちへ「人間性が伴わないと誰からも尊敬されない」

後輩たちへのメッセージを問われると「体操だけうまくてもダメだと思う。若いときは、人間性が伴ってなくても強ければよいと思っていたが結果が出る中で人間性が伴わないと誰からも尊敬されないし発言に重みがなくなると感じた。自分は小さい時から父親に『体操選手の前に1人の人間としてちゃんとしていないとダメだ』と言われてきた。大谷翔平選手も羽生結弦選手も人間として尊敬できるから支持される。そういうアスリートが本物だと思うのでこれからの体操選手には高い人間性を持ってほしい」と話しました。

大技「リー・シャオペン」「ブレットシュナイダー」についても

自分の礎を築いた技について「僕がここまで技を習得できたのは技を覚える楽しさを知っているからだ。技を覚えたことでうれしかった記憶があるのが『蹴上がり』という技で、小学1年生か小学校に入る前ぐらいの時であの時の記憶を今でも覚えている。自分は技を覚えるのが遅い方で、蹴上がりを覚えた時の感動は今でも忘れられない。あれがあるからこそ500ぐらいの技を覚えられた原動力になっている」と話していました。
また印象に残っている技について跳馬の「リー・シャオペン」と鉄棒の「ブレットシュナイダー」を挙げ「『リー・シャオペン』は習得してきた技の中でいちばん難しかった、いちばん動画を見る回数も多かった。実際にできても本当にできているかをずっと考えながらやっていった。いまだに難しいと思う。『ブレットシュナイダー』に関しても本当に試行錯誤を重ねてあの領域まで行けた。ひとつの技に対してそこまで追い求められるからこそ成功率も高いと思っているのでそういうところは下の世代の選手にも追い求めていってほしい。答えがないから追い求め続けることが大事だと後輩に言いたい」と話していました。

東京のあと次のパリ五輪まで3年 「そこまでは無理だな」と

引退を決断した際に葛藤があったかと聞かれると「もし続けるとしてもあと1年とかではなく次のオリンピックを目指したいと考えていた。ただ、あと3年となると『そこまでは無理だな』と考えたので結構すんなり決断した。東京オリンピックが終わってから世界選手権までの間だけでもこれだけしんどいのでもう無理だと思った」と話していました。

子どもたちへ「何でもいい 好きなことを1つ見つけやり続けて」

子どもたちへのメッセージを求められると「何でもいいと思うが自分の好きなことを1つ見つけられればそれが大人になっても続いていく。好きなことをやり続けることで勉強や習い事などでも『こう頑張ればいい』とか『こう続けていけばいい』と転換ができる。自分は体操をやる子どもが増えてくれればうれしいので自信を持って子どもたちに体操を勧められるように研究していきたい」と話していました。

約1時間で会見終了 花束手に笑顔で記念撮影に

内村選手は、およそ1時間にわたって報道陣からの質問に答えたあと、花束を受け取りました。そして笑顔で記念撮影に応じ引退の記者会見を終えました。

【体操 日本の絶対的なエースとして活躍 内村航平とは】

内村選手は3歳で体操を始め、日本体育大学などで練習を積みました。

優れた空中感覚を持ち味に力をつけ、2008年の北京オリンピックの代表選考を兼ねた全日本選手権で、当時の日本のエース、冨田洋之さんらをおさえて初めて優勝を果たし大きな注目を集めました。
19歳で北京オリンピックの代表に選ばれると、オリンピック本番では団体のメンバーとして日本の銀メダル獲得に貢献しました。

さらに個人総合では、決勝の演技であん馬で2回の落下があったものの、得意のゆかや跳馬で得点を重ねて銀メダルを獲得し、国内外に鮮烈な印象を与えました。

北京オリンピック以降は、世界選手権や全日本選手権など出場したすべての国内外の大会の個人総合で優勝。日本の絶対的なエースとして2012年のロンドンオリンピックを迎えました。

本番では、団体こそ銀メダルだったものの、個人総合では、6種目すべてで15点台をマークするなど圧倒的な演技を披露して、日本選手としては具志堅幸司さん以来28年ぶりとなる金メダルを獲得しました。
さらに内村選手は、リオデジャネイロオリンピックで個人総合と団体の2つの金メダルを獲得し、27歳にして体操選手としての充実期を迎えました。
4大会連続出場となった東京オリンピックでは鉄棒の予選で落下して、金メダル獲得はなりませんでした。

長崎 諫早に住む母 周子さん「みなさんに見守られる形で幸せ」

引退会見を受けて、長崎県諫早市に住む両親が取材に応じました。母親の周子さんは「いつかこういう日が来ると思っていたので、とうとう来たかという気持ちです。長い夢を見せてもらいありがとうと本人に伝えました」と話しました。

そして内村選手が、東京オリンピックの種目別の鉄棒で予選で敗退したあと去年8月下旬に連絡を取った際「あちこちぼろぼろだよ」と話していたのに対して「そんなに無理しなくていいよと声をかけました」と励ましたことを明かしました。

内村選手の今後について周子さんは「みなさんに見守られて選手生活を終えることができて幸せだと思います。今後は航平にしかできない、いろいろなことを伝えていってほしい」と話しました。

また父親の和久さんは「1つ1つの大会でモチベーションを保ちながら全力で結果を出していたので親ながら感心していました。これからは体操界に恩返しできる人になってほしい」と話しました。