向田邦子 亡くなって40年 時代を越えて読者を引きつける理由

向田邦子 亡くなって40年 時代を越えて読者を引きつける理由
「亡くなってから40年たって関連書籍がこれだけ出版されるのは、出版界でも例がないですね」
“向田邦子ブーム”を知り合いの編集者はそう表現した。航空機事故で亡くなって40年、当時の読者が懐かしんで買っているのかと思いきや、それだけではないらしい。20代、30代の若い読者を新たに獲得しているという。
取材している私たちには、ちゃぶ台のある昭和の家庭を描いた人、というイメージしかなく今の人気がピンとこなかった。今回、あらためて作品を読み直すとともに向田邦子の担当編集者、肉親、親友に話を聞いて回った。2か月に及んだ取材で浮かび上がったのは、時代を越えて読者を引きつける、向田邦子という人間の奥深さだった。
(科学文化部 記者 富田良/おはよう日本ディレクター 今井朝子)

突然あらわれ突然消えた

向田邦子の名が世に知られるようになったのは、まずドラマの脚本家としてだった。平均視聴率が30%を超えた「寺内貫太郎一家」は、彼女の代表作だ。短気だが家族思いの頑固オヤジが主人公。家庭のなにげない情景を描く腕前は誰もまねできないものだった。

手がけたドラマが次々とヒットしていた向田に転機が訪れる。40代半ばで乳がんを患ったのだ。「誰に宛てるともつかない、のんきな遺言状」として、手術のあとに書き始めたのがエッセーだが、ここでも人気を博すことになる。

ありふれた日常を独特の視点で切り取る観察力と表現力が高く評価された。多くの人に愛されたのが「父の詫び状」に代表される、向田の父が登場する一連の作品だ。
妻や子のことを深く愛しながらも、威張り、怒る、不器用で頑固な「昭和の父親像」を生き生きと描き出した。

特に多くの人の共感を呼んだのが、向田邦子の祖母が亡くなり、父親の勤め先の社長が弔問に訪れた時の描写だ。
「物心ついた時から父は威張っていた。家族をどなり自分の母親にも高声を立てる人であった。地方支店長という肩書もあり、床柱を背にして上座に坐る父しか見たことがなかった。それが卑屈とも思えるお辞儀をしているのである」
(略)
「父のお辞儀の姿だけが目に残った。私達に見せないところで、父はこの姿で戦ってきたのだ。父だけ夜のおかずが一品多いことも、保険契約の成績が思うにまかせない締切の時期に、八つ当りの感じで飛んできた拳骨をも許そうと思った。私は今でもこの夜の父の姿を思うと、胸の中でうずくものがある」
【「お辞儀」より】
鋭い観察眼は小説の執筆にも生きた。
1980年には直木賞を受賞、「突然あらわれてほとんど名人」と評され、作家としての明るい未来を期待されていた。
しかし1981年8月22日、台湾での取材旅行の途中で乗っていた航空機が墜落し、51歳の若さでその生涯を閉じることになる。

直木賞の受賞からわずか1年、あまりにも突然だった死は、日本中に衝撃を与えた。

“魅力は懐の深さ” 人気作家の分析

時代を超えて幅広く愛される理由を「懐の深さ」と指摘するのは、「食堂かたつむり」などの作品で知られる、作家の小川糸さんだ。
作家 小川糸さん
「男女のことを書いているのにドロドロしたものがなく、すごくさわやかで、表現の仕方が新鮮でした。清く正しく生きられたらいいけど、なかなか人間だからそうも言っていられなくて、それもまるごと許してくれる懐の深さのようなものを感じました」
作品を読み始めたきっかけは、20代のとき、2人の男性の強い友情とその狭間で揺れる女性の関係を描いた小説『あ・うん』だったという。
作家 小川糸さん
「よく見せようというところが全くなく、ありのまま正直に書かれていて、だからこそ余計なものがないぶん、エキスがぎゅっと入っているというか、いつの時代に読んでも新鮮なのかなと思います。今って、短絡的に白黒はっきりつけたがる風潮がある中で、向田さんの作品を読むと、そうではないグレーゾーンがたっぷりと用意されていて、こんな生き方も許してくれる向田さんの母性や愛に救われるようなところがあるのかな」
小川さんが手元で愛読している向田作品には、びっしりと付箋が貼られていた。読むたびにその位置は変わるという。
作家 小川糸さん
「読むたびに貼り直しているんですけど、いつも違うところで心が引っかかるんですよね。年齢とかそのときの状況によるのかな。宝物が散らばっているような感じですね」

“一人で生きる覚悟” 妹の証言

時代を超え、世代を超えて愛される「宝物」のような文章を次々と生み出した向田さん。その素顔はどんなものだったのか、間近に接した人たちに取材すると意外なエピソードが次々と飛び出した。

まずはエッセイにしばしば登場する「向田家」を代表して、妹の和子さんの話を聞いてみよう。
妹の和子さん
「私が困ったことがなくても『和子きょうはどうだった?』って。私がちょっと問題を抱えているときにすぐに声をかけてくれるような人なんですよ」
妹思いの優しい姉だったという。和子さんは短大卒業後、姉の紹介で就職した。わずか3か月で辞めたくなって姉に相談したときのやりとりを、和子さんは今も鮮明に覚えている。
妹の和子さん
「『何の心配もなくやめて、就職決まるまで自由にしていいわ』って言ったんですよ。え?って思うじゃないですか。でもなんだかんだ言って、最後にぽろっと言った事が私の人生を変えました。『あなたも苦労してこの仕事を探したら、そこまで文句がないかもしれない』ってポロリと言ったんですね。私その時に目が覚めたの」
女性が働くことが当たり前ではなかった時代に、脚本家、作家として腕一本で世を渡った向田邦子には、思うところがあったのだろう。

和子さんの話を聞いて、私は「手袋をさがす」というエッセーを思い出した。気に入る手袋が見つからず、どうしても妥協できない彼女が手袋無しで寒い冬を過ごすという思い出にみずからの人生を重ね合わせた作品だ。
「もしもあのとき、高のぞみでないものねだりの自分のイヤな性格を反省して、ほどほどの幸せを感謝し、日々平安をうたがわずに生きてきたなら、私は一体、どういう顔で、どういう半生を送ったことでしょうか」
(略)
「ただ、これだけはいえます。自分の気性から考えて、あのときー二十二歳のあの晩、かりそめに妥協していたら、やはりその私は自分の生き方に不平不満をもったのではないかー」
【「手袋をさがす」より】
妹の和子さんにも、自分の人生に妥協してほしくない…
そんな思いを伝えたかったのではないだろうか。不器用ながらも芯のある生き方を語る向田の素顔が垣間見えるこの作品は、最近読者になった若い世代の共感を呼んでいるという。

“うそつきの才能” 担当編集者の証言

向田邦子はどのようにして作品を生み出していたのか、執筆の現場を間近に見ていた元担当編集者の話を聞いた。
元担当編集者 関根徹さん
「ひと言で言うと、すてきな人でした。もうすてきだとしか言いようがないですね。思いやりがあるし、原稿が遅いこと以外ですと、もうほとんど何も言うことはない」
ベタ褒めしながらも、遅筆に悩まされた思い出を語ってくれたのは、昭和54年から2年あまりにわたって文藝春秋で向田さんの連載を担当した、関根徹さん(73)だ。

連載をそばで見続けてきた関根さんだが、向田さんが執筆に悩むようすは全く見られなかったという。
元担当編集者 関根徹さん
「特に取材もされませんでしたし、こちらに調べものを頼むこともほとんどなく、自分の中に蓄積されたものがあって、書くことがたくさんあったのだと思います。一つのエッセーにエピソードを惜しげもなく入れるところがあって、『詰め込みすぎじゃないか』と思うこともありましたが、種切れにはきっとならないんだなと。蓄積されたものと、ご自身の想像力。これは天性備わっていたのではないでしょうか『うそつきの才能がないと脚本は書けませんよ』ということをおっしゃっていたので」

“刃物の刃を渡るように書いていた” 親友の証言

編集者にも、肉親にも見せていなかった「素顔」があるのではないか?そう推察するのは向田さんと同年代で、20代の頃から付き合いのあった親友の澤地久枝さん(91)だ。
親友の澤地久枝さん
「刃物の刃を渡っていくように、かなり大変な思いをして文章を書いていた人だと思います。周りの人たちは、そのことに気づきませんでした。生まれつきのものを書いているとみんなに思わせて。そういうものも確かにありながら、しかし、向田さんは大変な努力の人でしたね」
最初のエッセー集「父の詫び状」には、向田家の人々とともに澤地さんも登場する。この作品が書かれた時、乳がんの後遺症で右手が動かず、輸血による肝炎も発症。押し寄せる死の恐怖と向き合いながら、向田さんは文章をつづっていた。

しかし、それを親友の澤地さんに対しても口にすることはなかったという。亡くなってから40年、澤地さんは折に触れて向田邦子について考え続けてきた。
親友の澤地久枝さん
「翳りのある人でしたね。私が向田さんと向き合って話をしているときにはお互いに笑っていますけれども、例えば青山で向田さんの後ろ姿をみつけたとき、なんてこの人は寂しそうな歩き方をしているのかと。私の直感が感じたことですけれども、向田さんはおそらく親きょうだいにも自分の本心を見せなかったと思います」
澤地さんの話を聞いて、周囲に見せていた「明るい向田邦子」とは違う1人の女性の姿が垣間見えたように思えた。

「向田さんがもし今も生きていたらどうなっていたと思いますか」という私の質問に、澤地さんは少し笑ってこう答えてくれた。
親友の澤地久枝さん
「向田さんの美意識から言ったら90歳を過ぎるまで生きるのは、あの人はよしとしなかったと思う。やっぱりあの人は、かっこよく生きたい人でしたね。私は90を過ぎた時に、ぶざまでも自分が生きている間は一生懸命生きなきゃならないと思いましたけれども、向田さんにはそういう感覚は多分なかったと思います。51歳というのは、今振り返るとあまりにも若いけれども、向田さんはそれまでに十分に生きているし、向田邦子という人は、それで十分なものを残したと思いますね。向田さんが60歳とか70歳は想像できませんもの」

向田邦子をたどる取材を終えて

生まれ持った才能で作品を書き続けていたイメージのあった向田邦子。隠しきれないほどの悩みや苦労を抱え、そして地道な努力を続けていたことは、私にとって少なからず驚きだった。

しかし、だからこそ人間のどうしようもない一面や弱さに共感し、それを正直かつユーモラスに描くことができたのだと、理解することができた気がする。

向田邦子が何を思って書いていたのか。今となっては確かめようもない答えを探すために、私たちはこれからも向田作品を読み続けるだろう。
科学文化部 記者
富田良
おはよう日本 ディレクター
今井朝子