ビンラディン容疑者とかつて会談 サウジ情報機関の元トップは

アメリカ同時多発テロ事件の首謀者のオサマ・ビンラディン容疑者とかつて会談したサウジアラビアの情報機関の元トップがNHKのインタビューに応じ、自身との会談も原因となってビンラディン容疑者が国の威信を傷つけようとサウジアラビア人15人を事件の実行犯として勧誘したとみていることを明らかにしました。

2001年に起きたアメリカ同時多発テロ事件では、事件を首謀した国際テロ組織アルカイダを率いるオサマ・ビンラディン容疑者と、実行犯19人のうちの15人がサウジアラビア出身でした。

事件から20年となるのを前に、事件の直前までサウジアラビアの情報機関のトップを務めたトルキ王子が西部ジッダでNHKの単独インタビューに応じました。

その中でトルキ王子は1989年にビンラディン容疑者と会談した内容について、「南イエメンの共産主義政権と戦いたいと言っていた。そのためにアフガニスタンから配下の戦闘員を送り込めるとのことだった」と述べ、戦闘員の派遣を提案されたことを明らかにしました。

トルキ王子はこの提案を拒否したということですが、その翌年にイラクがクウェートに侵攻した際にもビンラディン容疑者は、配下の戦闘員をクウェートに派遣するとサウジアラビアの国防相に提案しこれも拒否されたということです。

ビンラディン容疑者はサウジアラビア政府がアメリカ軍の駐留を受け入れたことでアメリカやサウジアラビアへの憎しみをつのらせたことが知られていますが、トルキ王子は「この2回の会談からビンラディン容疑者はサウジアラビアへの反発を強めた。そしてあの15人を選んだ。わが国は永遠に汚名を背負わなくてはいけない」と述べ、自身との会談も原因となってビンラディン容疑者が国の威信を傷つけようとサウジアラビア人15人を事件の実行犯として勧誘したとみていることを明らかにしました。

オサマ・ビンラディン容疑者とは

オサマ・ビンラディン容疑者はサウジアラビア出身の国際テロ組織アルカイダの指導者で、2001年にアメリカで起きた同時多発テロ事件の首謀者です。

ビンラディン容疑者はサウジアラビアで1950年代に、建設会社などを経営する、王族との深いつながりがある裕福な家に生まれました。

1979年に旧ソビエトがアフガニスタンに侵攻すると、現地のイスラム教徒を共産主義から守ろうと考え、現地に渡航しました。

アラブ諸国からアフガニスタンに渡航した戦闘員の生活を豊富な資金力で支え、支持を集めていきました。

こうした活動で築いた人脈をもとに1988年、アルカイダを結成しました。

1990年にイラクの当時のフセイン政権が隣国クウェートに侵攻したことを受けてサウジアラビア政府がアメリカ軍の駐留を受け入れたことで反米感情を高めていったと言われています。

1994年にはビンラディン容疑者の行動に危機感を強めるサウジアラビア政府によって国籍を剥奪されました。

ビンラディン容疑者はアメリカやイスラエルへの強硬な姿勢を鮮明にし、世界中のイスラム教徒に行動を起こすよう呼びかけてきました。

1998年のケニアとタンザニアにあるアメリカ大使館の爆破事件や2000年のイエメンでのアメリカ軍の駆逐艦への自爆攻撃など、アメリカが標的とされた事件に関わったとされています。

2001年のアメリカ同時多発テロ事件では、アメリカ政府が事件の首謀者と断定し、潜伏先とみられていたアフガニスタンで身柄の拘束に乗り出しました。

長らく行方がわかっていませんでしたが、2011年にパキスタンに潜伏しているところをアメリカ軍の特殊部隊に襲撃され殺害されました。

トルキ王子 20年余り情報機関のトップ務める

サウジアラビアのトルキ王子(76)はアメリカ同時多発テロ事件の直前まで20年余りにわたってサウジアラビアの情報機関のトップを務めた有力王族です。

トルキ王子は3代国王ファイサルの息子で、アメリカで教育を受けたあと、1977年からサウジアラビアの情報機関「総合諜報局」の長官を務めてきました。

サウジアラビア出身のオサマ・ビンラディン容疑者が1988年にアルカイダを結成して以降ビンラディン容疑者と面会するなどして動向を注視してきました。

1998年には、ビンラディン容疑者の身柄の引き渡しを求めて、潜伏先のアフガニスタンに渡航し当時のタリバン政権と交渉に当たりました。

トルキ王子はアメリカ同時多発テロ事件が起きる直前に長官を辞任したあと駐米大使や駐英大使などを歴任し、現在は政治や外交の第一線から退いています。

トルキ王子は情報機関のトップを長く務めてきたことからビンラディン容疑者やアルカイダについて詳しい事情を知る人物のひとりとされています。