パラリンピック 車いすの警備員と開きかけのドア

パラリンピック 車いすの警備員と開きかけのドア
「これは困った話が来たかもしれない」と、彼は最初思った。

警備員を目指さないかと言われたのである。

彼は定年を迎えていて、のんびりした人生を送りたいと思っていた。
しかも車いすを手放せない生活は、もう60年近く続いているのだ。

そもそも、車いすの警備員って聞いたことがない。

「でも、聞いたことがないならやる意味があるのかもしれない」
やがてそう思うようになっていく。

パラリンピックの会場に誕生した車いすの警備員、その人生です。
(ネットワーク報道部 小倉真依)

ポリオに感染 支えた母

彼は濱田久仁彦さん。

ことし61歳になった。

物心つくころには、歩くことができなかった。

原因は1歳の時に感染したポリオ。

小児麻痺とも呼ばれ、今はワクチンが普及して世界でもほぼなくなったが、当時は違った。

1回目の接種を終え、2回目のワクチンを接種する前に感染したと母親から聞いた。
(濱田さん)
「1歳の時に和式のトイレでしゃがめず、足が痛いと言って泣いていたらしいんです。近くの医者に行っても原因がわからない」

「何件か病院を回ってようやく感染がわかりました。まもなく歩けなくなったみたいで、自分には歩いていたという記憶がないんです」
やがて装具をつけて足を支えたり、松葉づえを使ったり、車いすに乗ったりして生活するようになった。

地元の小学校に通うようになると、校門まで母親が車いすを押して来てくれた。雨が降ると濱田さんは傘をさし、母親は車いすを押すので雨がっぱだった。

学年が上がり2階から上の教室になると、登下校の際、母親がおんぶして階段を上り下りしてくれた。6年生の時の教室は4階にあり、それでも変わらずおんぶして往復してくれた。

手に靴をつけて野球

当時、子どもたちにはプロ野球が人気で王、長嶋というスター選手がいた。

濱田さんも野球をするのが大好きだった。

だから学校から帰ると近くの公園に急いだ。

急ぐので両手に靴をつけた。

そのまま手と足を使って公園に“走る”。

そういった姿で公園に登場し、ピッチャーをやる時は、立てないので地面に座ったまま、思い切りボールを投げた。
打席には座って入り、打つとまた手に靴をつけ、手と足で走った。

遊びたい思いが勝っていた。
(濱田さん)
「でも小学校4年か5年くらいの時でしょうかね。だんだんと周りの目が気になってくるんです。恥ずかしくなり大好きな野球もやらなくなりました」

「それから中学校になっても外に出ることが減り、家でテレビばかり見るようになりました」
高校は、家から最も近い私立高校に通った。

家にいる時間が長い生活は変わらなかったが、少しだけ生活に変化があった。

車いすの業者が車いすバスケットボールに誘ってくれたのだ。

体を動かすことが楽しかった。

バスケットボールは30歳くらいまで続けた。

「野球をやめてから体を動かすことがほとんどなかった。授業の体育もほとんどできないですから。すごく楽しかったですね」

卒業すると電気機器の製作会社でラジオの部品を作る仕事に就いた。

しかしすぐに会社で孤独感を覚えるようになってしまう。

「不自由な足で社内を移動するのがしんどかった。周りに同じ年齢の社員がいないのでさびしくなってしまって…」

結局2年で退職した。

警察で指紋鑑定官に

次の仕事を考えた時に、車いすバスケットボールの仲間が紹介してくれたのが埼玉県警察本部の事務職員の仕事だった。

試験に合格すると配属されたのは警察本部の鑑識課という部署だった。

事故の現場に残された指紋や遺留品、血痕などの捜査を担当する部署だ。
ここで指紋鑑定官となった。

事件現場に残された指紋が、過去の事件の指紋と一致してないか調べて、資料を残していく。

60歳で定年を迎えるまで異動することなくおよそ40年、指紋を見る仕事にあたってきた。
(濱田さん)
「職員は異動があり地域の警察署に行く人もいるのですが、昔は障害者用のトイレもあまりありませんでした。異動の希望を出したこともあるのですが、なかなか難しかったのかもしれません」

思わぬ訪問者

濱田さんは去年4月に定年を迎え、これからはのんびりと過ごそうと思っていた。

しかし秋になり、思わぬ人から訪問を受けた。

警察に勤めていた時の上司だった。

大きな事件をいくつも解決した警察官で、同じ鑑識課にいたことがあったが、会うのは18年ぶりだった。

再就職し、警備会社に勤めていた。

「車いすのアスリートで警備員になる人を探している」という相談だった。

思い当たる人はいないと答えると、またやってきて「濱田さんやってみないかい」という話になった。

「警備の仕事ができるか不安だし、のんびり過ごしたい」と最初は断った。

相手は繰り返し訪ねてきた。

これは面倒な話になったと思ってまた断ったり、でもやってみようかと承諾したり、次の日には不安になって断ったりを何回か続けたあと、入社を決めた。
(濱田さん)
「それは不安ですよ、ずっと机に向かう仕事ばかりでしたから。できるかどうか、まずはやってみようという気持ちでした」
(警察時代の上司 貫田晋次郎さん)
「断られた時に考えたんです。濱田さんの世代はバリアフリーといった考え方がまだない、障害者にとって本当に不便な時代を乗り越えてきたんじゃないか、それなら難しい道でもがんばってくれるんじゃないかと」

「会社としても、自分としても、車いす警備員の道を開きたかったんです」

これでよいのだろうか

入社したのはさいたま市に本社がある警備会社。

女子警備員による硬式野球チームがあったり、日本ゴールボール協会のオフィシャルサポータにもなっていた。

まだ日の当たらない女子スポーツや障害者スポーツの支援に力を入れていて、濱田さんを勧誘したのには訳があった。
(海野さん)
「以前、国体や障害者スポーツ大会の警備を担当したことがあり、会場を見て回ったんです。その時、障害者への対応がお粗末というか、事務的だったと感じたんです」

「警備の仕事はいろいろあって、荷物検査や案内などもあります。警備員はほとんど男性でそれで女子選手への検査ってよいのだろうか、同じように障害者への対応って、障害がある人ならよくわかるのではないかと思いました」

「中小企業ですから大手にない強みがないと生き残れない。女性向けの警備、障害者に対応する警備に強さを持てれば、会社の特徴になるとも考えました」

8時間の必死

ただ濱田さんには他の警備員に比べると当然、ハンディがある。

“何がどこまでできるのか示さないと、顧客も濱田さんを仕事の場に就かせてくれないだろう”。

会社はそう考え、警備の研修の様子を映像で記録することにした。
映像の中で濱田さんは小走りの若い警備員の前を、追いつかれまいと車いすを懸命にこいだり、障害物を片手で何度も持ち上げたりしていた。
高い位置にあるドアのロックを外すためには、車いすをロックし、腕の力で車いすのひじ掛けの部分に乗っかって、作業をしてみせた。
救急対応の心肺蘇生のマッサージでは、車いすから飛び降り、下半身の力を使えないので上半身の力だけで、顔を真っ赤にして人形の胸を押し続けていた。

“必死”という印象だった。

女性警備員が撮影に協力してくれて「ここまでできる」ことをわかりやすく見せたいと言って、一緒に何回もやり直した。

数時間で終わるはずが、納得できるまでやると8時間がたっていた。

意味

4月、埼玉県の大学で入室管理や検温などのインターンをすることになった。

学生が校舎に入る時の検温や、本人確認などが仕事だ。
「検温と手の消毒をお願いします!」と拡声機で学生に呼びかけることもある。

まだ慣れてなく、少し声が小さいこともあった。

ただ、こうした場に車いすで仕事をする人がいること自体、それを目にする若い人が大勢いること自体がとても意味があるように思った。

パラリンピックの警備員に

今回のパラリンピック。

会社は千葉県の競技場の警備を担当することになった。

濱田さんが仕事に就くことも認められた。

入社して半年たって、初めての本格的な警備の仕事の場が、パラリンピックとなった。
仕事は会場入り口での関係者の手荷物検査だった。

来た人に声をかけ、名前を確認し、荷物の中をチェックしていく。

ほぼ2週間、近くのホテルに泊まりこんでの仕事だ。

合間に話を聞けた。

濱田さんは「自分にとっては長期間の仕事なので疲れることもあります。でも会場がバリアフリーで障害者用のトイレも多く、助かっています」

と言ったあと「これから働く場所がすべてそうとはいかないかもしれない、でも私がやる意味ってあるかもしれないと思うようになりました」と話を加えた。

開きかけのドア

パラリンピックの前、警備会社で話を聞いたあと、夕方、遅くなったので濱田さんと一緒に駅まで帰った。

障害者用の車も運転するが、公共交通機関で移動することが好きだという。

「大きな駅ですけど、どこにエレベーターがあるか、わかりにくいんですね」と言った。

「この道路は(車いすの)タイヤがすべりやすいんです」とも言った。

濱田さんの立場だから気付けることが、この先、いろいろあるのだろうなと思った。

別れ際「60歳を超えて、新しいことも覚えなくてはいけなくて、体力も使って、正直、大変ではないですか」と聞いた。

濱田さんは少し時間をおいてから、笑いながら「大変ですよ」と言った。

それから「もう60歳ですからね、自分が新しい道を切り開けるなんて思っていません。でも、ドアを開けたいとは思ってるんです。次の人が新しい道に入っていけるようなドアですね。簡単ではないですけどそれは開けたいです」と話した。

確かにそうなのだろう。

前例がないことは、たいがい困難がつきまとう。
仕事を続けていくには、車いすのハンディがあって警備をすることを、これからたくさんの人に理解してもらわないといけない。

たぶんドアはいくつかの偶然と、関わった人たちの思いと、懸命の努力もあっていま少し開いたばかりなのだ。

パラリンピックが終わって、もし新しい時代に進むなら、開きかけたそのドアを社会が閉じるようなことがあってはならない。