「あのときPCR検査を受けていれば」孫の呼びかけ聞けぬまま

『父 後藤研佐(けんすけ)が永眠いたしました。誕生日を目前に控えた71歳でした。コロナが憎くて憎くてしかたがない』ーーー

ことし4月5日、東京都内に住む後藤阿弥(あや)さん(33歳)が、SNSに1本の記事を投稿しました。

同居していた父の死。

阿弥さんは、新型コロナの恐ろしさや家族の苦しみを、多くの人に“我がこと”として感じてもらうことができればと記事を載せましたが、なぜ父の命を救えなかったのかと、自責の念も抱えていました。

「こんなに悲しい出来事が、まさか自分の家族に」

父親の死を、なぜSNSに投稿したのでしょうか。

阿弥さんは「こんなに悲しい出来事が、まさか自分の家族に降りかかるなんて思いもしませんでした。自分のまわりで同じ思いをする人が出ませんように。この願いを届けたいと思い、体験したことを書き込みました」と語りました。

まず娘夫婦が感染 母親も「陽性」に

ことし2月、まず阿弥さん夫婦が新型コロナに感染しました。

症状はのどの痛みや頭痛で比較的軽かったということです。

阿弥さんは父親の研佐さん夫婦と同居していたため、両親もPCR検査を受けました。

その結果、母親は無症状でしたが「陽性」と判明したため入院しました。

一方、このとき、研佐さんは「陰性」でした。

父に微熱やだるさも このときPCR検査は行われず

しかし、研佐さんは3日後、微熱や体のだるさを訴え、病院を受診しました。

病院では血液検査は行われましたが、PCR検査は行われませんでした。

この時、阿弥さんは宿泊療養施設に入っていたため、研佐さんに付き添うことができませんでした。

阿弥さん
「父は家族間で感染が広がっていることを医師に申告しましたが、なぜ病院はPCR検査をせずに父を帰宅させたのでしょうか。私が一緒にいられれば、医師に『PCR検査をしてほしい』と強く言えたはずで、父は今も生きていたかもしれません。父はコロナに感染した私たち家族の症状が軽かったこともあって『寝ていれば治る。大丈夫だろう』と言い続けていました」

『大丈夫』が口癖の父 なぜ踏み込めなかった

その後、研佐さんは自宅で療養を続けて、1週間が過ぎた2月19日。

熱が38度台まで上がり、再度、病院を受診します。

このとき、PCR検査を受けると、新型コロナ「陽性」と判明しました。

すでに肺のダメージは大きく、3月31日、入院先の病院で合併症も引き起こし息を引き取りました。

火葬の前、防護用のシート越しにわずか3分での別れ。

父親の命を救うことはできなかったのか、阿弥さんは自責の念にかられています。

阿弥さん
「父は『大丈夫』が口癖だと知っていたのに、どうして大丈夫ではないことを確認しなかったのか。父は重症化するまでのおよそ1週間、平熱に戻る日もありました。私たちが軽い症状だったこともあって、私も『治るかもしれない』と楽観していたところもありました。もっと危機感を持っていればと、悔やんでも悔やみきれません」

遺影に“じーじ” 孫の呼びかけ聞かせたかった

SNSには、研佐さんの写真も載せています。

初孫の瑠くん(1歳)を抱く様子。

病院で酸素吸入を受ける姿。

研佐さんの遺影を不思議そうに見つめる瑠くん。

研佐さんの最後の肉声は、テレビ電話を通じた「瑠くん、ごはんおいしいか」ということばでした。

瑠くんから「じーじ」と呼ばれる日を楽しみにしていたという研佐さん。

亡くなっておよそ1週間後、瑠くんは遺影の研佐さんに向かって“じーじ”ということばを発したといいます。

「一度でいいから、この声を聞かせたかったです。時間を戻せるなら何でもする…」と阿弥さんはことばを詰まらせました。

「気にしすぎなんてことはなく、一歩踏み込んで」

インタビューの最後、阿弥さんは呼びかけました。

阿弥さん
「感染対策を徹底していても、感染してしまうことはあります。ただ、自分自身や家族の体調がおかしいと感じたら決して大丈夫とは思わず、PCR検査を受けるなど早く対応してほしいです。気にしすぎなんてことはなく、『一歩踏み込んで行動する』。これを忘れてしまえば、自分や家族の命取りになります」

(取材:経済部 記者 峯田知幸)