感染隠さず立候補したら…

「私自身もコロナを経験いたしました。隠し事をして選挙にのぞむことはできません」
小雪が舞い、足を止める人は少ない街角で、こう訴える新人候補がいた。
新型コロナウイルスに感染したことを、あえて公表して選挙戦に臨んだのはなぜか。
そして何を訴えたのか、候補を追った。
(大分局・大室奈津美)

告示1か月前に!

大分市で酒店を経営する神志那(こうじな)隆裕。
子どもが通う小学校のPTA会長をつとめた経験から、子育て支援の充実などを訴えようと、2月の大分市議会議員選挙への立候補を決めていた。
53歳での選挙初挑戦だ。
ところが、告示1か月前の1月13日、新型コロナウイルスへの感染が判明。
看護師の妻が感染したことから、濃厚接触者としてPCR検査を受けた結果だった。
頭が真っ白になったという。

「焦りは正直ありました。ほかの候補はもう自由に動いて進んでいた。悔しさもあったけど、これはもうしょうがないんで」

無症状だった神志那は妻とともに、県が用意したホテルで療養生活を送ることになった。
小学生と中学生の2人の息子は感染していなかったが、学校を休んで自宅待機する必要が出たため、急きょ、市内にある妻の実家で面倒を見てもらった。

10日間のホテル療養

10日ちょっとの着替えと、選挙に関する書類一式を持ってホテルに入った神志那。
用意された弁当を取る以外は、ドアも開けず、部屋から一歩も外に出られなかった。
窓を開けて外の空気を吸うこともできなければ、目に映る景色は、隣のビルの壁だけ。
別の部屋で療養する妻と、毎日、電話で励まし合った。

依然として体調に変わりはなかったが、いつ急変するのではと、不安は消えなかったという。
「私も基礎疾患が、いくらかあったので、やっぱり急変したらどうしようとか、朝もし目がさめないで、この世におらんかったらどうしようって不安は、若干あったんです」
選挙が刻一刻と迫る中、ほかの候補に遅れをとることへの焦りも募った。
予定していた事務所開きもままならず、知り合いへのあいさつ回りもできずに、部屋でひとりじっとしていなければならないもどかしさ。
それでも、届け出に必要な書類を作成したり、演説の練習をしたりして、時間を過ごし気持ちを落ち着かせていった。

結局、これといった症状もあらわれず、10日で療養生活は終了した。
告示は、3週間後に迫っていた。

つらい体験に沸き上がる思い

ようやく元の生活に戻ったと思った。
しかし、待っていたのは家族が直面したつらい体験だった。

新聞やテレビなどでたびたび見聞きしていた、感染者やその家族への差別や中傷。
看護師の妻は、新型コロナウイルスの患者を受け入れる病院で勤務し、一時は最前線で感染者のケアにもあたっていた。
にもかかわらず、今回感染が判明すると、職場で「手洗いはしていたの」「マスクはつけていたの」と、まるで“対策が不十分だったのでは”と責めるかのようなことばをかけられたという。

さらに、感染していない子どもも。
妻の実家から自宅に戻ったその日、「お帰り」と優しい言葉をかけてくれる友人もいたものの、「コロナが来た!」などと言われたという。
心ないひと言を思い出すと、胸が痛む。

神志那の胸に、差別や中傷のない社会づくりを訴えたいという思いが沸き上がった。
「戦うべき相手はウイルスで、人じゃない。ひぼう中傷のない、支え合える大分市に」
みずから、陽性となったことを公表し、選挙戦を戦いたいと思うようになった。

公人に隠し事はない

告示の1か月前に行われた選挙管理委員会の立候補者説明会。
取材に来ていた私は立候補を予定していた15人ほどの新人のなかで、神志那だけは代理が出席していることに気付いた。
どうしたんだろう。

本人に取材をしようとしても、代理人からは、「いまは会えない」「理由は言えない」とそっけない返事ばかり。
「なぜか」と繰り返し聞くと、「このご時世だから察してほしい」と言われた。

この日、まさに、PCR検査で神志那の陽性が判明した日だった。

よりによって初めての選挙に、コロナに感染したことを公表して臨むという判断には、当初、親族や支援者から反対の声もあったという。
しかし、本人には、公表への懸念や葛藤はなかったという。

「ふつうの人は言いたくないですよね。でも僕は、選挙に出ると決めたときから、自分は公人だと思っているんです。公人は隠し事なんてしてはいけない」
相談を受けた家族も、その思いを受け止めた。

神志那は感染したことを公表することを決めた。

コロナを訴えの前面に

いよいよ2月14日、選挙が告示された。
今回の選挙には、44の定員に対して58人が立候補する大激戦となった。
現職は1人を除く43人全員が再選を目指していた。
感染対策で、多くの人を集める集会を自粛する候補者も多く、現職有利との前評判も出ていた。

ホテルでの療養生活もあって事務所開きが1か月近く遅れるなど、逆風と言える要素が重なった神志那。
それでも選挙ポスターは、家族や知り合いの協力で、3日かけてなんとか貼り終えた。
顔と名前を覚えてもらい、感染を経験したことを知ってもらおうと、地元だけではなく、広い範囲をくまなく回り、演説を行った。
訴えるのは、もちろんコロナ対策だ。

「後遺症のつらさはそれぞれ違います。せきが続くかた、頭痛があるかた、また気持ちの問題、誹謗中傷で悩むかた、いろいろでございます。そういったことまでわかる政策でなければならない。財源の確保、税金の見直しをして、コロナのための政策をうつためのお金を、作っていかなければなりません」
無症状で、後遺症にも悩まされることがなかった神志那だが、不安が消えず、知り合いの医者とも意見交換を行った。そうしたなかで、さまざまな症状があることに加えて、食事や生活のしかたによっては、重症化を防ぐ可能性があることを教わった。市民をケアする政策を、もっと充実させなければならないと訴えた。

さらに一段と熱い思いで、こう訴えた。
「誰もがコロナになりうる。ならない人はならないかもしれないけど、なったときに温かく見守ってあげる。手をとって大丈夫だよ、心配しないでと手をさしのべる。そういう世の中にしないといけない」

感染公表の訴えに有権者は

感染者であることを公表して選挙を戦う候補者に、有権者の受け止めは、さまざまだった。
「自分がもし感染しても、なかなか言えないと思うので、勇気がある。経験を生かしてくれると期待している」

「コロナに感染したことを言うだけなら、単なる票集めだ。感染したらどうするかなどを調べて政策に生かすなら意味がある」

初めての選挙活動で、はじめは演説でもガチガチに緊張し、早口だった。時には話の内容が頭から飛んでしまい、全くことばが出なくなることもあった。
それでも、「いい話だから、もっとゆっくり話して」と声をかける人や、「コロナにかかったらどうすればいいか、もっと聞きたい」と求める人も現れた。

さらにはコロナ禍にもかかわらず、握手を求められることもあったりと、一定の手応えも出てきたという。
「人の距離は今は離さないといけないけど、心の距離は離れていない。どこの場所であれ、どんな形であれ、私は行く」

新たなスタート

そして、迎えた開票。
756票を獲得したものの、58人中55位で、議席にはつながらなかった。

事務所で、深夜0時すぎまで結果を待ち続けた神志那。
最終的な確定を待たずに敗北を悟ると、集まった支援者に対して、静かに深く頭を下げた。口かずも少なく、さすがに落ち込んだ様子をみせた。

しかし、選挙戦で印象に残った場面を尋ねると、ことばに力がこもった。

「演説で税金の話とかしていたら、あまり真剣に聞いてもらえなかったが、コロナの話になったら、子どもも大人もその場に座り込んで聞いてくれた時は、話をしている僕もドキッとするくらい相手に響いたのかなって」

「息子が僕の演説を聴いて“自然と涙が出た”って。父親が戦う姿を見て、涙が出たよって言ってくれて、ああ、思いが伝わったのかなって」

議員にこそなれなかったものの、今回の経験を生かし、PTAの活動などを通じて、感染した人を支える地域づくりに取り組むつもりだという。
「親がコロナにかかったとき、子どもをどうするか。コロナになった人が、心配なく養生しながら社会復帰できる環境を、どうすれば作れるか。地域のために考えて、もう1回スタートしたいと思います」

コロナに苦しむ人に寄り添いながら頑張っていきたい。
神志那は、すでに前を見つめていた。

(文中敬称略)