戦傷兵から摘出の銃弾や砲弾の破片大量に発見

戦傷兵から摘出の銃弾や砲弾の破片大量に発見
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戦時中、多くの傷病兵を治療したとされる福岡県の小倉陸軍病院の跡地で、負傷した兵士から摘出された銃弾や砲弾の破片およそ250点が見つかっていたことが分かりました。専門家は「戦争の悲惨さを裏付ける史料として価値がある」としています。
終戦までの9年間に、およそ21万人の傷病兵を受け入れたとされる、北九州市の小倉陸軍病院の跡地にある国立病院機構小倉医療センターで、ことし9月、11の木箱に入った銃弾や砲弾の破片およそ250点が見つかりました。

その後、引き渡された陸上自衛隊小倉駐屯地で、戦時中、負傷した兵士が小倉陸軍病院で治療を受けた際に摘出されたものだと確認されたということです。

多くは日中戦争が始まった昭和12年以降のもので、太平洋戦争や日露戦争当時のものも一部、含まれ、兵士の名前や負傷した箇所などのメモも残されています。

長さ数センチ、幅7ミリほどのつぶれた小銃の弾や、さびた砲弾の破片は終戦から73年の時を超えて戦場の傷を生々しく伝えています。

東京千代田区のしょうけい館・戦傷病者史料館の木龍克己学芸課長は「これだけまとまった形で見つかるのは見たことがない。まさに戦争の遺物だと言え、どのようなけがを負い苦労をしたのか、戦争の悲惨さを裏付ける史料として価値があり、保存すべきだ」と話しています。

発見の経緯と整理されていた銃砲弾破片

小倉医療センターによりますと、銃弾や砲弾の破片は、新たな建物への移転作業に伴う資料整理の際、倉庫の片隅で見つかった白い布がかけられた木箱の中に標本のように並べられていたということです。

発見した小倉医療センターの在間礼子さんは「銃弾みたいなものがあったのと同時に、文字が右から左に書いてあったので、だいぶ古いものだなとびっくりしました。けがを負われた方もご家族のことを思いながら、耐えていたのかなと思う」と話していました。

多くは時期ごとに分けられ、箱に「日支事変摘出小銃弾砲弾破片」と書かれた日中戦争当時のものや、太平洋戦争が始まった昭和16年以降の日付が記されたもの、古くは日露戦争当時のものもあります。

けがをした箇所や種類が詳細に記されているものもあり、銃弾が体内に残る「盲管銃創」や「砲弾破片創」といった負傷の種類が記されています。兵士たちは中国などで傷を負ったものの現地では治療できず、船で小倉まで搬送され手術を受けたとみられます。

当時、手足などの切断を余儀なくされた兵士や、戦後も後遺症に悩まされた兵士もいて、その原因となった銃弾や砲弾の破片は戦争の悲惨さを現在に生々しく伝えています。

小倉陸軍病院とは

小倉陸軍病院は明治21年に小倉衛戍病院として始まり、軍医として小倉に赴任した文豪、森鴎外が視察や指導に訪れたとされています。

昭和12年、日中戦争が始まったのを受け小倉陸軍病院と改称し広島、大阪の陸軍病院とともに海外で負傷し送り返された兵士の受け入れ拠点となりました。

小倉陸軍病院は地理的な近さもあって、中国からの傷病兵を中心に、終戦までの9年間におよそ21万人を受け入れたとされています。戦後は国立小倉病院となり、現在は国立病院機構小倉医療センターとして運営されています。