墓参などでの小笠原帰還 57年の会談で米が拒否

墓参などでの小笠原帰還 57年の会談で米が拒否
戦後アメリカの施政下にあった小笠原諸島が返還される前の1957年に行われた日米外相会談で、日本側が、元島民の墓参りなど島への帰還を求めたのに対し、アメリカ側は軍事上の理由で拒否していたことが、12日公開された外交文書で明らかになりました。
小笠原諸島には戦時中、島民およそ7000人が暮らしていましたが、戦争が激しくなった1944年に日本本土に強制疎開させられてからは、戦後、アメリカから返還されるまでの間、ほとんどの島民が島へ戻れませんでした。

12日に公開された外交文書には、小笠原諸島がアメリカの施政下にあった1957年9月、当時の藤山外務大臣がアメリカのダレス国務長官と会談したときの記録が記されています。

この中で藤山大臣が、返還問題とは切り離して、「少数でも早く帰島を実現してもらいたい」と求めたのに対し、ダレス長官は「帰島を研究したが、結論は否定的である。この問題は軍当局との間で議論を尽くしたところである」などと述べ、軍事上の理由で拒否しました。

藤山大臣が、島への全面的な帰還が難しいならば、墓参りのために帰るいわゆる「墓参」だけでも認めるように重ねて求めましたが、ダレス長官は「墓地については戦争による破壊やその後のジャングル化により跡形もない」としたほか、「安全保障上の事情がある」などと述べ、応じませんでした。

会談が行われた1957年は、日本本土に駐留していたアメリカ軍の地上戦闘部隊が撤退した時期と重なり、ダレス長官は会談の終盤、「米軍の日本撤退に伴い、小笠原は軍事専門の拠点にする必要がある」と述べていて、当時、小笠原諸島の軍事上の重要性が高まっていたことがうかがえます。

日米外交史に詳しい日本大学の信夫隆司教授は「当時、小笠原諸島の父島には核弾頭が配備されていたとも言われていて、安全保障上の重要性の高まりから、アメリカは島への帰還を許さなかったと推測される。その後、原子力潜水艦の能力向上で、軍事的な重要性が大幅に低下し返還されることになったが、領土交渉が軍事的な安全保障と密接に絡んでいることを示す事例だ」と指摘しています。

小笠原諸島返還までの経緯

小笠原諸島には、かつて7000人を超える島民が暮らしていましたが、太平洋戦争の戦況の悪化に伴い、1944年に軍属を除くすべての島民が日本本土へ強制疎開させられました。

翌年の1945年、終戦を迎えましたが、百数十人の欧米系の島民を除いて、ほとんどの人がふるさとの島に戻ることを許されないまま、アメリカの施政下におかれました。

しかし、1965年、日米両政府は「アメリカが墓参を好意的に検討することについて同意した」とする共同声明を発表。その2か月後、墓参のための島への立ち入りが例外的に認められることになりました。

そして、1967年11月、当時の佐藤栄作総理大臣がアメリカを訪問し、ジョンソン大統領と首脳会談を行い、小笠原諸島の早期返還に原則合意しました。

翌年の1968年4月、返還協定への署名が行われ、同じ年の6月、23年ぶりに小笠原諸島が日本に返還されました。